今時、こんなお店にお客が入るのかしら?
その駄菓子屋の前で、咲江は、いくらか呆《あき》れて立っていた。もちろん、咲江もお菓子を買いに来たわけではない。
薄汚れたガラス戸をガラガラと開けて、
「あの……。すみません」
と、店の中に入って行く。
明りを点《つ》けるのももったいない、というのか、中は薄暗かった。
「あの——誰かいませんか?」
と、咲江が呼びかけてから、たっぷり三十秒もたって、
「はい……」
何だか眠そうな声がして、奥の障子が開いた。「何ですか?」
と、その五十歳ぐらいの、髪をボサボサにした女は、咲江を見て言った。
店があって、誰か入ってくれば、普通はお客と思うだろうが。
「あの——ちょっとうかがいたいんですけど……」
「道を訊《き》くなら、この先の交番へ行って下さい」
と、女は引込みそうになった。
「あ、そうじゃないんです」
と、咲江はあわてて言った。「ええと——そのドロップを下さい」
ものを訊くなら、やはり何か買わなくてはいけない。——その辺は、咲江も「父親仕込み」なのかもしれなかった。
女は、面倒くさそうに、出て来た。しわくちゃのブラウスと、スカート。
お金を払って、缶入りのドロップをもらったものの、とてもなめる気になれないくらい、埃《ほこり》だらけになっている。
「あの——ここに、永井かね子さんという方、いらっしゃいます?」
と、咲江は訊いた。
「永井——誰?」
「永井かね子。〈永久〉の〈永〉の永井。〈かね子〉はひらがなで——」
「うちは高橋ですよ。表札に出てるでしょ」
「ええ。でも——あの、この住所に、永井かね子さんという方が住んでらっしゃる、と……」
「知りませんね」
と、その女は肩をすくめた。「昔、住んでた人かね」
「あの、いつごろからここにおいでなんですか?」
「私? もう三十年になるわね」
と、女は言った。「その永井かね子が、どうかしたんですか」
「いえ……。お心当りがなければいいんですけど」
咲江は、「失礼しました」
と、頭を下げて、店を出た。
「毎度、どうも」
と、女が奥へ入りかけ、背中を向けたままで、言った。
——やれやれ、だわ。
入江咲江は、ドロップの缶を手に、ため息をついた。
「お父さんも、妙なことばっかり頼んで来るんだから」
ラテン語で書かれた日記。そして、住所だけあって、住んでいない女。
一体何をしてるんだろう?
歩きだしながら、咲江は腕時計を見た。——もう行かなくちゃ。
土曜日というのに、デートがあるでもなく、女の子同士で飲みに行くでもない。アルバイトなのである。人材派遣会社に登録してあって、土日はたいてい、コンサートホールの案内嬢。
でも——何だか気になった。
あの駄菓子屋。振り向いて見ると、店のガラス戸にチラッと人影が動いた。
あの奥さんだろうか。
何が妙だったのか、咲江自身、よく分っていなかったのだが、それでも気になった。何かがおかしい。
「永井かね子、か……」
誰なんだろう、この女は?
咲江は足を早めた。——アルバイトに遅刻して行くと、次から仕事を回してくれないのだ。
いやな天気。——暗い雲が、ゆっくりと広がり始めていた。
「いらっしゃいませ」
と、咲江はチケットを受け取り、「どうぞこちらへ」
黒っぽい制服のスーツで、ホールの中を歩いて行く。——もうこのホールは何度も来ているので、すぐに座席の場所はつかむことができた。
「——こちらの三番目のお席になります」
と、その初老の紳士にチケットを返す。
「ありがとう」
と、にっこり笑って言ってくれると、咲江の方も気分がいい。
「どうぞごゆっくり」
と、微笑む気分にもなるというものである。
通路を抜けて、担当の入口のわきに立つ。
この仕事をするようになってから、咲江は初めてお化粧というものをした。それも、友だちの川田京子に教えてもらって、憶《おぼ》えたのである。
やはり、こういうお客相手の仕事では、見た目の華やかさというものも必要になるからだ。——それでも、咲江は、お化粧していると、自分の顔が自分のものでなくなったような気がして、終ると早々に落としてしまうのだった。
ここはクラシック音楽の専用ホール。
このところ、クラシック音楽のコンサートにも若いアベックが目立つ。ちょっと知的な雰囲気のファッション、というところもあるが、まあ悪いことではあるまい。
咲江も嫌いではないので、曲によっては、中に入って立って聞いたりすることがあった。
もちろん——咲江とて二十一歳の娘である。
恋人の一人も、ほしくないわけではない。しかし、焦ったところで、恋人が出現するわけではないし、今は学費と生活費をかせぐだけで手一杯。
京子のように遊び暮している友だちのことも、別に羨しくはなかった。——人は人。自分は自分。
それも父譲りの生き方なのかもしれなかった……。
咲江は、ちょっと苦笑した。父のことを思い出したからである。
相変らず、仕事というと、我を忘れているらしい。
父の部下の柴田依子から、父が左遷された事情は聞いていた。その時には、よっぽど大学をやめて、父の所へ帰ろうかと思ったほどである。
仕事を取られたら、たちまちぼけてしまうんじゃないかしら、と心配になったからだった。
しかし——何だかわけの分らないラテン語の日記帳を送って来たり、「永井かね子」という女のことを調べろと言って来たり……。
あの調子じゃ、結構元気にやっているらしい。咲江はホッとしたのだった。
もう大学も三年生。
あと一年半で、卒業だ。就職といっても、なかなか難しいが、父が老い込んで動けなくなるころには、多少、稼げるようになっておきたい。
どうせ、父親の面倒はずっとみなくてはならないのだし……。
目の前にぐいとチケットが突き出されて、咲江はびっくりした。——見るからに気むずかしそうな老人が、黙ってチケットを出している。
案内しろ、とでも、何か一言、言ってくれればいいのに……。でも、世の中には、色んな人がいるものなのだ。
気を取り直した咲江は、チケットを受け取り、席の番号を見ると、
「こちらでございます」
と、歩き始めた。
「——おい、待て!」
と、老人が苛《いら》々《いら》した声で、「そんなに早く歩いたって、ついて行けんだろうが!」
「申し訳ございません」
と、咲江は詫《わ》びた。
「全くもう……。今の若い奴《やつ》は、年寄りに気をつかうことも知らん」
と、聞こえよがしに言う。
気をつかいたくならないお年寄りもいるのよね、と心の中で、咲江は呟《つぶや》いた。
さて……。
「この列の——」
と言いかけて、咲江は言葉を切った。
四番目の席のそこにはツイード姿の、若い男が、もう座っていたのである。
「どうしたんだ?」
と、老人が顔をしかめる。
「お待ち下さい」
咲江は、老人に渡されたチケットの、日付を確かめた。間違ってはいない。
列の間へ少し入って、
「失礼ですけど」
と、その若い男に声をかける。
プログラムを熱心に読んでいたその若者は、顔を上げて、咲江を見た。
「恐れ入りますが、チケットを拝見できますでしょうか」
若者は黙って上衣のポケットから、チケットを出して、咲江に渡した。
咲江は二枚のチケットを見比べた。——全く同じ日、同じ時間の同じ席である。
ごくたまに、こんなことが起る。一方はコンピュータで打ち出したもの、もう一方はプレイガイド扱いで、どこかに手違いがあったのだ。
「失礼しました」
と、咲江はチケットを若者へ返して、待っていた老人の方へ戻ると、「——大変申し訳ございません。ミスで、同じ席のチケットがダブって打たれたようです」
「何だって?」
老人は目をギョロつかせて、「冗談じゃない! 高い金を出して買ったんだ、席がないって言うのか!」
「いえ、当方のミスですので、他の席をご用意いたします。ちょっとお待ち下さい」
咲江は、急いでホールのロビーへ出ると、受付へと駆けて行った。
もう開演直前のチャイムが鳴っている。
「——席のダブリ。どこか一枚、ない?」
と、声をかける。
「二階のわきしかないわよ」
「二階?——値段は?」
「七千円。これでいい?」
「他になきゃ、仕方ないわね。じゃ、もらってくわね」
そのチケットを手に、咲江は急いでホールの中へ戻った。
咲江がいない間に、騒ぎが起こっていた。
「——年寄りに席を譲るのが当り前だろう!」
とあの老人が、顔を真赤にしている。
若者の方も、立ち上って、
「先に来た人間の方が座るのが当然です。あなたの席がないわけじゃないんですから」
と、言い返している。
「貴様はそれでも日本人か!」
と、老人が甲高い声を出した。
もちろん、周囲の客たちは、顔をしかめてその言い合いを眺めている。
「失礼しました」
と、駆けつけた咲江は、息を弾ませながら、「席をご用意いたしましたので、どうぞ」
と、老人に声をかけた。
他の客がホッと息をつく。しかし老人は、ジロッと咲江を見て、動こうとはせず、
「席はどこなんだ?」
と、訊《き》いた。
「あの——二階しか空いていないんです。同じお値段の席ですので」
「じゃ、その若いのにそっちへ行かせろ」
と、老人は言った。「この席を買ったんだぞ! ここに座るのは当然だ」
咲江は青くなった。開演のチャイムが鳴っている。いつ演奏が始まってしまうか……。
「あの——お詫びは改めて。今はこのお席に行っていただけないでしょうか」
と、咲江は言った。「他のお客様もお困りだと思いますので」
「間違ったのはそっちだぞ!」
老人はますます腹を立ててしまった。「それなのに、何でわしが辛抱しなきゃならんのだ!」
「あの——そうおっしゃられましても——」
と、咲江が言いかけた時だった。
あの若者が、プログラムを鞄《かばん》へ入れると、立ち上って、
「僕が二階へ行きますよ」
と、言った。
「え?」
「さ、どうぞ」
若者が通路へ出て、老人に言った。「ごゆっくり」
「フン」
老人は、いまいましげに若者を見て、「全く、年上の人間を尊敬するってことを知らんのだから、今の若い奴は……」
ブツブツ言いながら、その席へと足を運ぶ。
——周囲の客は、顔をしかめていた。
「さ、出よう」
と、若者が言った。
「あ、すみません。ご案内します」
咲江は急いでロビーに出ると、二階へ上がる階段の方へ急いだ。
「いや、いいよ」
と、若者が言った。「チケットをくれれば分る。年中来てるから」
「でも——」
「コーヒー一杯飲もうと思ってたんだ。君、どう?」
「は?」
「もう客も来ないよ」
「でも、始まりますよ」
「聞きたいのは後半だから、いいんだ。何も食べてなくてね。サンドイッチでも食べよう。——入江咲江さん、だよね」
咲江は唖《あ》然《ぜん》とした。
「いや、どこかで見たことあるな、と思ってたけど、やっとさっき気が付いたんだ」
「失礼ですけど……」
「分らない?」
若者がポケットから、メガネを取り出してかけた。咲江は、アッと声を上げた。
「松本さん!」
あのラテン語の「本の虫」ではないか!