「咲江がさらわれた?」
京子が目を丸くした。「あんた、何やってたのよ!」
「すまん」
と、松本がしょげている。
「まあ、仕方ないわよ、すんじゃったことはね」
ルミが、相変らずのんびりした口調で、言った。
ルミのことは、もちろん京子はまるで知らないのだが、それでも、何となく少し似たところもあって、二人はすぐに意気投合、というムードである。
「これから、どうするか考えなきゃ」
と、ルミが言った。
「しかしなあ……。探すったって、何の手がかりもない」
「そんな風に、初めっから諦めちゃだめよ」
と、京子が言った。「何とかしなきゃ! あんただって、咲江のこと、好きなんでしょ?」
「もちろんだよ」
「じゃ、何か考えなさい」
京子の注文も、かなり無理ではある。
「——例の〈永井かね子〉って家も焼けちゃってるし、日記帳は持ってかれたし……。他に手がかりがないんだ」
「そこを何とかするのが恋人でしょ」
「僕が囮《おとり》になる、って手も考えたんだけど、たぶん、もう彼らは僕には用がないんじゃないかな」
と、松本は首を振った。
「そうか……。警察に捕まったら、それこそ最悪だしね」
と、京子は言って、ため息をついた。
——しばし、三人は黙っていた。
ルミが、タバコを出して、
「一本どう?」
と言った。
「いや、結構」
「私もいいわ」
沈んだムードである。——ルミが、煙を吐き出して、
「——ラテン語」
と、言った。
「え?」
「ラテン語。日記帳って、ラテン語だったんでしょ」
「そうだよ」
「あなた、読んだの?」
「いや、まだ」
「でも——向うは、それを知らないのよ」
と、ルミは言った。
松本と京子が顔を見合わせた。
「——分る? その連中も、たぶん日記がラテン語だった、って知らなかったんじゃない?」
「なるほどね」
と、松本が肯《うなず》く。
「奪ったはいいけど、彼らだって、そう簡単には読めないはずよ」
「そうだろうな」
「だとすると、向うが、またあなたに連絡を取って来るかもしれないわ」
松本は、殴られた頭を、そっとさすって、
「その可能性はあるな。よし、それじゃ……どうしよう?」
「でもさ」
と、ルミが言った。「あんた、何でラテン語なんて、勉強する気になったの?」
「今はそんなこと、どうでもいいでしょ」
と、京子は立ち上って、「じゃ、その連中が松本君のマンションに、何か言って来ているかもしれないわ」
「よし! じゃ行こう」
と、松本は立ち上って、「また車のトランクか!」
と、ため息をついた……。
すると、電話が鳴った。京子が不思議そうに、
「ここの番号、うちしか知らないのに。——誰だろう?」
と、受話器へ手をのばす。「——もしもし」
「川田京子さんかね」
と、男の声。
「どなた……ですか?」
と、言いながら、京子は、どこかで聞いたことのある声だな、と思った。
「入江だ。咲江の父だよ」
アッと京子は声を上げた。
「入江さん!——ど、どこなんですか?」
「いや、こっちも逃げ回っていてね。咲江はそこに?」
京子はためらった。
「あの……ちょっとまずいことになって」
と、言った。
「まずいこと、というと?」
「あの——今、行方不明なんです」
「何だって?」
入江の声が、一瞬かすれた。「どういうことなんだね」
「実は——入江さんの送ったラテン語の日記帳、あれと一緒に、誰かが……」
「さらって行ったのか!」
「ええ……。あの、何とかしようって、今、相談してたんです」
と、京子は言って「——もしもし?」
「いや……すまん」
と、入江が息をつく。「迷惑をかけて、悪いね」
「とんでもない。入江さんの方、大丈夫ですか?」
「いや……。何とかして、そっちへ行く。そこの電話は君の家で聞いたよ」
「そうですか」
「ともかく、警察に追われてるんだ」
「入江さん、刑事でしょ?」
「そうなんだがね」
と、入江は苦笑しているようだった。「ともかく、何とか東京まで——」
「ね、ちょっと」
と、ルミが急にやって来ると、京子の手から、ヒョイと受話器を取って、「——もしもし、私、ルミです。どうも」
「どうも……」
「今、どちら?」
「あ……N駅の近くだよ」
「ああ。知ってるわ。じゃ車で迎えに行きます」
「ええ?」
「だって三百キロか五百キロでしょ」
「しかし……」
「ご心配なく。私、運転が好きなの。じゃ、二、三時間で——は無理かな」
「君は——」
「私、ルミ。咲江さんの友だち」
「そうか」
「そう」
「じゃ——いいのかね」
「待ってて、顔が分るように、京子さんを連れて行く」
「ああ」
「じゃ、後でね。おじさま」
ルミが電話を切る。「——じゃ、出かける?」
京子がポカンとして、ルミを眺めている。
「ねえ」
と、ルミは松本の方を向いて「N駅ってどの辺? 九州とか北海道じゃないでしょ」
「N駅?——確か……列車で三時間くらいじゃないか」
「やった! 勘が当った!」
と、ルミは指を鳴らした。「私、N駅って聞いたことなかったんだよね」
京子と松本は、呆《あき》れてルミを眺めているばかりだった。
とても逃げられるタイミングではなかったのだ。
とも子の動きは、そのがっしりした体つきから信じられないくらい、すばやかった。
咲江は、腕をつかまれると、凄《すご》い力で、引き戻され、床に転がって、壁に、いやというほど叩《たた》きつけられた。
「逃げられると思ったの?」
とも子は笑った。「可愛《かわい》いもんだね。腕の一本、へし折って泣かせてやろうか」
「やめて……」
と、咲江は声を震わせて、「もう逃げません」
「当り前さ。——さあ立って」
と、とも子が出した手をつかむと、咲江の体は、今度はドアの方へと放り投げられていた。
体が完全に宙に浮いた。コンクリートの床に、叩きつけられ、目の前が一瞬暗くなった。
「どう? 面白い?」
「痛い……。勘弁して」
と、咲江は体を丸めた。
「おやおや。——さっきの元気はどこへ行ったのさ」
とも子が、咲江の髪をぐいとわしづかみにした。咲江は叫び声を上げた。
咲江の体は、小さな机の角に、打ちつけられた。そのまま、床に転がる。
「——気絶したふりしても、だめだよ」
と、とも子はやって来ると、「見りゃ分るんだからね」
ムッ、と、咲江の体をつかんで、引き起こした。
咲江は、これを待っていたのだ。
とも子は油断していた、腹を無防備にさらけ出している。
咲江は父から教えられた護身術の通り、腕を曲げ、肘で思い切り、とも子の腹を突き上げた。
手応えは充分あった。とも子が腹をかかえて、うずくまる。
咲江は、立ち上ると、スチールの椅《い》子《す》をつかみ、両手で頭上高く振り上げて力一杯とも子の頭に振り下ろした。
椅子の背もたれが外れて飛んだ。殺したかもしれない。
しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。
とも子はぐったりと床に伏せている。
咲江は、急いで、その白衣を脱がせ、上に着た。そして、靴。——幸い、サイズはそう違わなかった。
ポケットを探ると、いくつか鍵《かぎ》のついたキーホルダーがあった。これでいい。
咲江は廊下へ出てドアを閉めた。
記憶を頼って、さっき〈非常口〉とあった矢印を捜して、廊下を急いだ。
何とか——早くここから出るのだ!
体の痛みも忘れていた。——父や松本を危機へ追いやった連中への怒りが、咲江の中にエネルギーとなって、燃えていたのである……。
「——今、何時だ?」
と、入江は訊《き》いた。
「七時です。——もう来てもいいころですがね」
と、大内が言った。
「私、見てくる」
敦子が、外へ出ようとした。
「いや、危いよ」
と、大内が止めた。「もう君のことも知れてる」
「でも……」
「——お腹空いた」
と、言ったのは、笠矢祥子である。
四人は、N駅の外れにある、道具小屋に隠れていた。
駅前にはパトカーが二、三台、常に停っていたのだ。とても近付けない。
「もう少し我慢して」
と、敦子が、祥子の肩を抱いた。「お姉ちゃんのお尻《しり》でもかじってる?」
祥子が、ちょっと笑って、
「大内さんがやきもちやくから、やめとく」
と、言った。
「おいおい……」
大内がすっかりからかわれてしまっているのだ。
入江は、やっと依子の死というショックから、立ち直っていた。
いつまでも泣いてはいられない。相手は人情など、解しない男たちなのだ。向うが非情なら、こっちもそのつもりで立ち向かわなくてはならない。
「——しっ」
と、大内が言った。「車だ」
「パトカーだ……」
と、敦子が言った。
赤い灯が、ドアの向うに見えている。
「中を見たか?」
と、声がした。
「いや、まだだろう」
「見て来ようか……」
警官の声だ。——少なくとも二人はいる。
「警部——」
「銃を持ってろ」
入江は、息を殺した。
せっかくここまで来たんだ。やられてたまるか!
拳《けん》銃《じゆう》を握りしめる。——汗が、にじんでいた。
「ためらわずに撃て」
と、大内へ囁《ささや》く。
「分りました」
足音が近付いて来た。——やるしかない。
その後は? ともかく、ここを切り抜けるのだ。
ドアが開いて、警官の制服が見えた。
「——誰もいませんよ」
その警官の声を聞いて、入江は体が熱くなった。——吹田だ!
あの町で、入江に心服していた警官である。
「よく見ろよ」
と、外から声がかかる。
「はい」
吹田は、中へ入って来ると、懐中電灯の明りをグルッと中へ向けて、「——ネズミ一匹いませんね」
と、言った。
「OK、行こう」
「はあ」
吹田は、黙って、入江を見もせずに、出て行った。
ドアが閉り、やがてパトカーが走り去って行った。
誰もが息をつく。——入江も、びっしょりと汗をかいていた。
「天の助けだ」
と、大内が言った。
「うまく逃げられるわよ」
と、敦子が肯《うなず》いて言った。「私、自信持っちゃった」
「うん」
と、祥子も肯く。「でも、お腹空いた」
「——おい、外の様子を見てみろ」
大内が肯くと、ドアをそっと開けた。
目の前に、妙な車が停った。窓から川田京子が顔を出している。
「警部」
と、大内が言った。「あれ……ですか?」
入江がドアを開ける。京子が、
「良かった! 早く乗って!」
と手招きする。
やった。——助かったのだ。入江は、胸に熱いものが充《み》ちて来るのを、感じていた。