男なんて、役に立たないもんだな。
——女でなく、男がこう考えているというのも、割合に珍しいことかもしれない。
そう考えていたのは、松本である。
まあ、客観的に見れば、松本も殴られたのだし、大分苦労はしているのだが、確かに目下のところ、あんまり役に立っているとは言えない。
ただボケッと、京子のマンションで待っているだけなのである。
「電話番か……。俺《おれ》はどうせ、そんなことしかできないよ」
と、一人ですねていると、本当に電話がかかって来た。
「——はい」
と、出たが、向うはなかなかしゃべらない。「——もしもし?」
「こちらは天国です」
と、言った声は……。
「咲江! 君か!」
松本は飛び上った。「大丈夫か! 今、どこだ?」
「大丈夫じゃないわよ」
と、咲江は言った。「冷凍されちゃってね、電子レンジで戻してもらったの」
「ええ?」
「で、精神病院へ入れられそうになって、看護人と大乱闘の末、やっつけて逃げて来たのよ」
「咲江……」
「怖かった」
と、咲江が言った。「でも、何とか逃げたわ」
「迎えに行く」
「いえ、一人で帰れる。ただね、お金がないの。タクシー代持って、マンションの前で待ってて」
「分った」
「あと十五分あれば行ける。——会いたかった! 一年も会わなかったみたい」
「うん……」
松本も胸が一杯になって来た。
「ルミさんは?」
「京子君と二人で、お父さんたちを迎えに行ったよ」
「父が? 父が連絡を?」
「うん。ともかく、早くここへ戻って来いよ。待ってる」
「分ったわ。——松本さん」
「何だ?」
「今夜も抱いてね。そのために頑張って逃げて来たのよ」
咲江は、ちょっと照れたように笑った。
——電話が切れると、
「やった!」
と、松本は飛び上った。「やった! 咲江!」
たぶん、下の部屋の住人はびっくりして、天井を見上げていたことだろう……。
ルミの運転する車が、京子のマンションに着いたのは、もう夜中だった。——途中、ハンバーガーなどを買って、食べたので、祥子は満足したのと安心したせいか、ぐっすりと眠っていた。
「僕が抱いて上るよ」
と、大内が言った。
——京子が、部屋の鍵《かぎ》を開けて、
「松本君……。帰ったわよ」
と、中に入って、声をかける。「松本君……」
「寝てんじゃない?」
と、ルミが言った。
「まさか。いくら何でも」
「ともかく入ろう」
と、入江が息をつく。「くたびれたよ」
全員、ゾロゾロと居間へ入って行く。
「お父さん!」
と、叫ぶように言って、駆けて来たのは、咲江だった。
「咲江! 帰ってたの!」
と、京子が目を丸くする。
「ほらね。無事だった」
と、ルミは大してびっくりした様子でもない。
「咲江……」
入江が、言葉もなく、しっかりと娘を抱きしめたが……。「——おい」
「良かったわ、本当に」
「うん……。しかし、どうしてお前、そんな格好してるんだ?」
咲江は、だぶだぶのTシャツを裸の上に着ていたのだ。
「や、どうも……」
と、松本がパンツ一つの格好でやって来た。「良かったですね」
入江は目をむいて、
「お前か! 咲江をこんな——こんな——」
と、顔を真赤にしている。
「ま、生きて会えただけでも、良かったじゃない」
と、ルミがのんびりした口調で言った。
「それはまあ……」
入江も、嬉《うれ》しさの方が大きいので、いつまでも腹を立ててはいられない。渋い顔で、
「ともかく、今は服を着てこい!」
と、言った。「それから——お前は、責任をとれよ」
と松本の方をジロッとにらむ。
「もちろんです!」
と、松本が直立不動の姿勢になった。
「ともかく、一旦落ちつきましょ」
と、咲江が言った。「話が山ほどあるんじゃない?」
「全くだ」
と、大内は言った。
そして、咲江は、ふと気付いて、
「あら。柴田さん……依子さんは?」
と、訊《き》いた。
入江と大内は、チラッと目を見交わした。
「一緒じゃなかったの?」
「いや……途中でね……」
と、大内が口ごもる。
「彼女は死んだ」
と、入江は言った。
咲江は青ざめた。——思いもかけない言葉だったのだ。
「死んだ……。死んだの」
「ゆっくり、話そう」
入江は、娘の肩に、やさしく手をかけて、言った……。
「——細菌兵器だって?」
入江は呆《あき》れたように、「時代錯誤な話だ! そんなことのために、人殺しまでしたってのか」
「ともかく、向うの話ではね」
と、咲江は言った。「本当かどうかはともかく……」
「さ、コーヒー」
と、京子がカップにコーヒーを注ぐ。
——もう、昼近くになっていた。
疲れ切った入江たちは、そのまま眠り込んでしまって、やっと起き出して来たのである。
「でも、こうやってみんなで顔を合わせられるなんて、夢みたいね」
と、咲江が言った。「これで依子さんがいたらね……」
「彼女の死をむだにしてはいかん。——真相を明らかにしよう」
と、入江が言った。「なあ、大内」
「は、はあ……」
大内が欠伸《あくび》をした。「——すいません」
疲れていても、ゆうべは大内と敦子が一緒だったのだ。入江は苦笑した。
「——でも、父親が感染していたとしたら、あの子も?」
と、京子が言った。
「どうかな。爆弾まで落としたのは、そのせいかもしれん」
「じゃ、我々も感染してますかね」
と大内が言って、みんな顔を見合わせたが……。
「今さら心配しても」
と、ルミが笑った。
「全くだ」
入江は肯《うなず》いて、「それに、もうずいぶん長くたっているんだぞ、あの子は心配あるまい」
と、言った。
「ともかく、第一にやるべきことは?」
と、大内が言った。
「マスコミだ。咲江が逃げ出したことで、向うも何か手を打って来るだろう」
「そうですね」
「俺《おれ》が一番顔がきくだろう。ともかく、親しい記者たちに、連絡する」
「それがいいわ」
と、咲江が肯く。「みんなが知ってしまえば、もう私たちを狙《ねら》っても意味がなくなるものね」
「しかし、入江さん。大丈夫ですか」
と、松本が言った。「外へ出たら、狙われるかもしれない」
「私、運転手やる」
と、ルミが楽しげに言った。
「あんたには、すっかり迷惑をかけたな」
と、入江が言った。
「退屈しのぎに絶好よ」
ルミはコーヒーを飲んで、「その代り、一つお願いがあるの」
「何だね?」
「拳《けん》銃《じゆう》持たせてくれない?」
「何だって?」
「一度、ハンドバッグに拳銃をしのばせる、っていうのをやってみたかったの」
入江は、ちょっと笑って、
「OK。おい、小型の奴《やつ》を彼女へ貸してやれよ」
と、大内に言った。「——事件が無事に片付いたら、ゆっくりごちそうするよ」
「あら、いいのよ」
と、ルミは笑って、「この人の作ったぞうすいよりおいしいものなんて、この世にないわ」
入江は、キョトンとしてルミを眺めていた……。
「ともかく——」
と、大内は言った。「柴田さんの敵《かたき》は取ってやる。このままじゃすませませんよ」
「私も引っかいてやる」
と、敦子が言った。
「——おはよう」
と、声がした。
祥子が立っている。目が少しはれぼったいが、元気そうだった。
「どう? 眠れた?」
と、咲江が訊く。
「うん」
と、祥子は肯いて、「コーヒー、飲んでもいい?」
「あら、コーヒーなんか好きなの?」
「いつもお父さんと飲んでたんです」
「じゃ、どうぞ。ミルクは?」
「ブラックでいいです」
「負けるね」
と、大内が笑った。
「——お父さんのことも、どうなったのか、必ず調べてやるからね」
と、入江が言った。「君、お父さんの写真とか、持ってないかね」
「あります」
祥子は、寝ていた部屋へ行くと、またすぐに戻って来た。「これ。——ちょっと前のだけど」
祥子と二人で並んでいる写真。入江はその写真を他の人間に回した。
「この人ね……」
咲江は、その写真を見た。——ちょっとの間、咲江の顔がこわばった。
「——ありがとう」
咲江は、写真を祥子に返した。
「僕は咲江さんが閉じこめられかけた、その病院ってやつを当ってみましょう」
と、大内は言った。「もしかしたら、病院というのは表向きかもしれない」
「うむ。じゃ早速行動開始だ」
入江は、活力が若者のように限りなく溢《あふ》れ出て来るって感じだ。
——咲江は、父親の腕をちょっとつついて、
「ね、来て」
と、言った。
「何だ?」
咲江は、父を寝室の方へ引張って行った。
「松本って奴のことなら——」
「そうじゃないわよ」
と、咲江は言った。「あの写真の——あの子の父親のこと」
「あの父親がどうかしたのか?」
「あの病院で見たような気がする」
と、咲江は言った。
「本当か?」
「似てるの。——でも、少し違うような気もするし。ただ……」
「じゃ、父親もあそこに閉じこめられているのか」
「そうじゃなくて」
と、咲江は首を振った。「私を訊《じん》問《もん》した、向うの男。あの写真の父親と、よく似てるのよ」