「あの——」
と、松本が言った。「どなたですか?」
どう見ても、セールスマン、という感じの男たちだった。いや、油断はできない。
殺し屋が、いかにも殺し屋らしい顔をしていたら、仕事にならない。手に下げたアタッシュケースの中には、時限爆弾が……。
「〈A商会〉の者ですが」
と、男は松本ににらまれて、キョトンとした顔で言った。
「あ、そうか!」
ルミがポンと頭を叩《たた》いて、「はいはい。——私よ、電話したの」
「あ、いつもごひいきいただきまして」
と、男が頭を下げる。「車をお持ちいたしました。下に停めてございますが」
「ありがと。じゃ、キーをちょうだい」
「はあ。——あの、ご覧にならなくてもよろしいですか?」
「いいわ、面倒だから。気に入らなかったら、誰かにあげる」
呆《あつ》気《け》に取られた松本が見ている前で、ルミは男の出す書類にさっさとサインをした。
「では——こちらがキーでございます」
「ありがと。ガソリン、入ってるでしょうね?」
「満タンにしてございます」
「結構。カーステレオは?」
「カセットは標準装備でございまして。今回は特にCDプレーヤーをサービスしてございます」
「気がきくわね。じゃ、またその内に」
「ありがとうございました」
男たちが帰って行くと、松本は唖《あ》然《ぜん》として、
「そんな簡単に車買うのか、いつも?」
「だって、階段を下りちゃったもんね、今の車。多少、ガタが来ているかもしれないし。それに、警官が見てたから、同じ車じゃまずいじゃない」
「外車だろ、そのキーについているマーク?」
「うん」
と、ルミは肯いて、「二千万くらいかな」
松本だって、父親が社長で、結構のんびりやっていたが、ルミの方は大分桁《けた》が違うようだった……。
「ね、咲江さん」
と、ルミが言った。「ちょっとドライブしてみない?」
「その新しい車で?」
「もちろん」
「いいわね!」
と、咲江は微笑んだ。
「おい、危くないか?」
と、松本が心配そうに、「ついて行こうか、僕も」
「来てもいいけど、トランクの中よ」
と、ルミが言うと、松本が目をむいた。
「大丈夫よ、すぐ戻るわ」
と、咲江が笑って、松本に素早くキスした……。
夕方になって、町は夜へと沈んで行く、その間の微妙な時間に入っていた。
新しい車は、いかにも嬉《うれ》しそうなエンジン音をたてながら、空いた住宅地の坂道を走り抜けていた。それは、やっと外へ出してもらえた犬が、大喜びではね回っている姿に似た感じだった。
隣に座っている咲江は、ルミの元気のいい運転に、しばしば青くなったが、色々助けてもらったんだから、それくらいは我慢しなきゃ、と辛抱していたのだ。
キッ、とブレーキをかけて、車は、静かな公園のわきに停った。
「気に入った!」
と、ルミは満足気に肯いて、「ねえ、咲江さん、いい車じゃないの」
「そ、そうね……」
と、咲江は少しひきつった笑顔を見せて、ルミに気付かれないように、そっと息をついたのだった……。
しかし——猛スピードで駆け抜けた後だからだろうか、じっと動かずにいることの快さが、咲江のこわばった四肢を解きほぐしてくれるようだった。
静かに暮れて来る町並。——ゆるい坂の下に車は停っていて、その坂の先の方へ目をやると、上り切ったその上は、すぐ空である。
不思議な光景だった。誰も歩いていない坂道。ゆるい風も、音をたてるほどではない……。
「好きだなあ、こういう時間」
と、ルミが、呟《つぶや》くように言った。「ガンガン、ロックか何か鳴ってやかましいのも好きだけど、こういうエアポケットみたいな時間も好きだわ」
エアポケットみたいな時間、か……。本当にそうだ、と咲江は思った。不思議な人だわこの人。
それにしても……。
「これからどうなるのかしら」
と、咲江は呟いた。「袋小路へ追い込まれたようなもんね」
「考えようよ」
と、ルミは言った。「ねえ、たまたまあんなことに巻き込まれちゃって、みんな大変だけど、こうしてちゃんと生きてるんだし、それだけだって、奇跡みたいなもんじゃない。あなたは松本君っていう、ちょっとパッとしない恋人もできたし」
「まあひどい」
と、咲江は笑った。
「ねえ、この風景だって、静けさにみちていていい、とも言えるし、人っ子一人いなくて無気味とも見えるしね。そんなものよ」
ルミの言い方は、いかにも気楽で、スターのゴシップでもしゃべっているようだった。しかし、咲江は心をうたれたのだ。
そう……。この人の言う通りだ。絶望していても、道は開けない。
「——だけど、このままじゃどうにもならないわ」
と、咲江は首を振って、「どこへこんな話を持って行けばいいのか……。いつまでも、こうして隠れているわけにもいかないわ」
「そうね」
と、ルミは肯《うなず》いた。「また少しドライブしましょ。いい考えが浮かぶかもしれないわ」
「ドライブ中に?」
「私ね、場所の持ってる霊感ってものを信じてるの。いい考えの浮かばない場所には、そういう力がないのよ。だから場所を移して、考えてみる。そうすると、うまく行くかもしれないわ」
なるほど。ルミの言い方は、科学的に根拠があるかどうかは別として、何だか当てになりそうな気がした。
突然、凄《すご》い勢いで車が走り出し、咲江は、
「キャッ!」
と、声を上げて、引っくり返りそうになってしまった……。
咲江とルミが、「意義あるドライブ」から戻ってみると、大内と敦子が帰って来ていた。
「いいところへ戻って来たね」
と、松本が出て来て、「みんな集まってるよ」
「何かつかめたの?」
と、咲江が勢い込んで訊《き》く。
「ちょうど、今、出前のピザが来たところなんだ」
——咲江は、みんながめげていないと知って、嬉しいような、拍子抜けのような、複雑な気分だった……。
「——じゃ、あの病院に出入りしたその外車を尾《つ》けて行ったのね」
と、咲江は、大内の話に、身を乗り出して、言った。「誰の車か分ったの?」
「しっかり、見届けたわよね」
と、敦子は言った。
「うん。その車、K製薬の本社の地下へ入って行った」
と、大内が説明する。「ナンバーの方から持主を当ると、K製薬の社用車になってるんだ」
「K製薬って、あの大会社?」
「日本でも三つの指に入る大手メーカーだ」
と、入江が肯く。
「その車は、いつも社長が利用しているんだよ」
「じゃ、あの病院と、K製薬と、何かつながっているわけね」
「ねえ」
と、笠矢祥子が言った。「その車って、この番号?」
ピザの箱の端を破って、ボールペンでサラサラと書いて、大内に渡す。大内はそれを見て、
「うん、この番号だ」
「あの町にも来たことあるわ」
と、祥子が言った。「お父さんに会いに来た」
「そうか。どんな男だったか、憶えているかね?」
と入江が訊いた。
「ううん」
祥子は首を振って、「乗って来た人の顔は見ていないんです。お父さんが、二階へ行ってなさい、って言って——。二階の窓から、下に停ってる車を、チラッと見たの」
「なるほど」
「でも、お話が少し聞こえて来ました、『とんでもない話だ!』とか、お父さん、怒ってた。——珍しいんです。お父さん、めったに怒ったりしない人だから」
「とんでもない話、か」
と、入江は肯いて、「他に何か聞かなかったかね?」
「他には何も」
「そうか。いつごろのことだね、それは?」
「お父さんのいなくなる、一か月くらい前です」
「ふむ……」
「製薬会社の社長が、あの山の中の家へね」
と、大内は考え込んで、「どういうことなんですかね」
「さて……。直接、その社長とやらに会って訊くしかないかもしれんな」
入江の目に、再び生気が戻って来た。
相手さえ、はっきりして来れば、入江は活力が戻って来るのだ。たとえ先の見通しはたたなくても、目の前に、ぶつかるべきものさえあれば——。
それが刑事というものなのである。
「ねえ、祥子ちゃん」
と、咲江は言った。
「はい」
「あなた、窓からチラッと見ただけで、その車のナンバーを今まで憶《おぼ》えていたの?」
「ええ。記憶力、いいんです、私」
「そう」
それにしてもたいした記憶力である。
「凄いなあ、テストの時には最高だね」
と、松本が学生らしい感想を述べたのだった……。
「すると、一つはやるべきことができた」
と、入江は言った。「そのK製薬の社長に会うことだ、何て男だ?」
「〈会社要覧〉で調べました。佐山昭一郎という男です」
「佐山か。——どこを訪問してやるかな」
と、入江は楽しげに言った。
「さっき、ルミさんとドライブしててね、思ったの」
と、咲江が言った。「じっとしていても、やがて向うはこっちを捜し出すわ。だったら、まずこっちから出向くのよ」
「出向くって、どこへ?」
「今、分っているのは、あの病院しかないじゃない」
「危険だよ」
と、松本は言った。「いや、もちろん、僕はいい。しかし、逆に捕まっちまったりしたら……」
「向うだって、まさかこっちが攻撃して来るとは思っていないわよ」
と、ルミがおっとりと言った。「そこが狙《ねら》い」
「そうよ。私、考えたんだけど……」
咲江の話に、誰もが目を見開いた。
「確かに危険は大きいわ。でも、こそこそ忍び込むだけじゃ、仕方ないと思うの」
「そうだ」
と、入江は肯いた。「いい手がある。絶好のニュースねたがある、といって、新聞やTVを呼んでやるんだ」
「そいつはいいや。圧力がかかる前に、報道されてしまいますからね」
「よし。やろう」
と、入江は肯いた。「ところで、どういう分担でやる?」
「僕は何でもやりますよ」
と、大内が言った。「柴田君の恨みを晴らしてやらないと」
「私も」
と、敦子が手を上げる。
「君はだめ!」
「どうしてよ」
「命を落とすことになるかもしれないぞ」
「こう見えても、落とし物なんか、したことないんだからね」
やり合っている二人を見て、入江は笑ってしまった。
「よし、こうしよう。俺《おれ》はその社長さんとやらに面会しに行く。大内は病院の方だ」
「ですが、警部」
と、大内が言うと、
「警部と呼ぶな」
と、入江は言った。「俺はもう刑事じゃない。いやけがさしたよ」
「分りました。じゃ、何て呼びますか?」
「おじさん、でどう?」
と、ルミが言った……。
入江は眠れぬままに、ソファに横になり、目をつぶっていた。
行動開始は早いにこしたことはない。今夜十二時、と決めて、それまで、一休みすることになったのである。
二つある寝室は、それぞれ、松本と咲江、大内と敦子が使っている。——咲江に関しては、入江もあまり面白くなかったが、もう咲江も子供じゃないのだ、仕方あるまい。
特に、今夜の計画が失敗すれば、みんな、命を落とすことだってあり得るのだ、恋人同士、二人で過したいのは当然の気持だろう。
人間ってのは、以前は、何も悪いことをせずにいりゃ、穏やかに生きていけたものだ。それが今は、そうもいかないらしい。
いや、考え方を変えれば、人の世の中である限り、悪い奴《やつ》というのは必ずいて、そういう手合を放っておくのも、「悪いこと」のうちに入るのかもしれない。
警官として、入江は自分のやって来たことは何だったのか、と考えていた。
「何だ——」
目を開けると、ルミが立っていた。明りはほとんど暗くしてあるので、うっすらとしか見えないが、シャワーを浴びて来たのか、湯の匂《にお》いが漂っている。
「君にゃ、すっかり世話になったな」
と、入江は言った。「もう礼を言う暇がないかもしれんから、言っとくよ」
「どういたしまして」
と、ルミが言った。「でも、私、お礼は言葉じゃいやなの」
入江は目を丸くした。身にまとっていたものがハラリと落とされると——暗い中とはいえ、どう見てもルミは裸で……。
「君ね……私はその……」
「黙って」
と、ルミは入江の上に、体をあずけて、「お礼は、行動で示してもらうことになってるの」
入江は、ルミの唇で口をふさがれ、酸欠で死ぬかと、一瞬恐怖を覚えたのだった……。