病院の〈夜間非常口〉という文字が、赤く夜の中に浮かび上っている。
ルルル。——ルルル。
建物の中に、呼び鈴の音が響くのが、聞きとれた。
固く閉じたドアのわきのインタホンから、
「誰?」
と、女の声が聞こえた。
「患者です」
車を運転している男が、答える。
「患者? 紹介のない患者は受け付けないのよ」
「佐山社長の紹介です」
向うは、少し黙った。それから、
「患者は誰?」
「名前は知りませんが、若い女です。ここから逃げ出したとか」
「開けるわ。入って」
と、即座に、女の声が答えた。
ガチャッ、とロックの外れる音が聞こえた。男は重いドアを開けると、
「車で通れるな。——よし、入ろう」
と、運転席に戻った。
車で中へ入ると、茂みに囲まれた裏庭のような場所で、少し先に、黒い建物が重苦しく横たわっていた。
車が扉の前につくと、同時に扉が開いた。
「——患者は?」
頭に包帯を巻いた、がっしりした体格の女が、白衣姿で出て来る。黒田とも子である。
「後ろだ。薬で眠ってますから」
ドアを開けると、黒田とも子はニヤッと笑った。
「お帰りね。——会いたかったわよ」
「ストレッチャーは?」
と、言ったのは、付き添って来た看護婦である。「脱水症状を起こしていて」
咲江の腕に針が止められて、点滴のびんを、看護婦が手で持っていた。
「必要ないけどね」
と、とも子は言って、ちょっと面倒くさそうに、顔をしかめると、「待って」
と、戻って行き、すぐに、ストレッチャーを押してやって来た。
「じゃ、運びましょう」
と、看護婦が言うのを、
「私がやるわよ」
と、とも子は、咲江の体の下に手を入れ、軽々とかかえ上げた。——凄《すご》い力だ。
ストレッチャーに咲江を寝かせると、
「もういいわよ、後は任せて」
と、とも子は言った。「私がちゃんと面倒みるわ」
「そうはいかないんです、佐山社長の言いつけで」
と、運転して来た男が言った。「ちゃんと病室へ収容されるまで、確かめて来い、ということでした」
「信用できない、っていうの?」
と、とも子がムッとしたように言った。
「一度逃げられてるんじゃね」
男が皮肉っぽく言った。とも子はいまいましげににらんだが、
「いいわ。じゃ、ついて来て」
と、ストレッチャーを押して行く。
看護婦は、点滴のびんを手にして、小走りに急がなくてはならなかった。
エレベーターで地下へ下りる。
「取りあえず、処置室ね」
と、とも子は言って、白い扉を押した。
スイッチを押すと、まぶしい光が溢《あふ》れる。タイル貼《ば》りの、一見手術室のような印象の場所である。
とも子は、咲江を中央の台にのせると、点滴のびんをかけ、
「さ、これでいいでしょ。もう引き上げてちょうだい」
と言って、男の方を振り向いた。
「結構だ」
男は——もちろん大内である——拳《けん》銃《じゆう》を構えて言った。「おとなしくしていてもらおうか」
とも子の顔が真赤になる。咲江が起き上った。
「うまく入りこんだぞ」
と、大内が言った。「咲江君、急いで」
「ええ」
咲江が台から下りて、「敦子さん、その服を」
「脱ぐわ。こんなもの、窮屈でしょうがない」
と、敦子は看護婦の制服を脱ぎ捨てた。
「あんたたち……。生きて出られると思ってるの?」
と、とも子が燃えるような目で、三人をにらんだ。
「私は出たわ」
「この傷の礼はさせてもらうよ」
と、とも子が、包帯へ手をやる。
「あの子を連れて来るわ」
と、咲江が看護婦の制服を着て、廊下へ出ようとした時、とも子の足が、サッと上った。
サンダルが飛んで、大内の額に当る。
大内が、一瞬よろけた。とも子の動きの素早さは、信じられないほどだった。大内に向ってぶつかって行く。
大内ははね飛ばされて、壁にぶつかった。手から拳銃が飛んで、ツルツルの床を滑った。
「大内さん!」
と、敦子が叫ぶ。
とも子が、仰向けに倒れた大内に馬乗りになって、首に両手をかけた。絞め殺す気だ!
「やめて!」
敦子が後ろから飛びかかって、とも子を引き離そうとしたが、とも子は全く、動かなかった。
太い指が、大内の首に食い込んで行く。大内の顔が真赤になった。必死でとも子の指をほどこうとするが、効果がなかった。
「やめて! やめて!」
敦子は、とも子の髪を引張り、顔を引っかいて、何とか止めようとしたが、とも子は額から血を流しながら、真赤な顔に、凄まじいまでの憎悪をこめて、大内の首を絞め続けている。
「敦子さん! どいて!」
と、咲江が叫んだ。「どいて!」
しかし、敦子の方も夢中だ。咲江の声が耳に入る様子はなかった。
咲江は、大内の拳銃を拾っていたのだ。しかしとも子の背中に、敦子がしがみついているので、撃つに撃てない。
といって、正面に回って撃てば、とも子は殺せても、その弾丸が貫通して、敦子まで殺すことになりかねないのだ。
仕方ない。ためらっている余裕はなかった。
咲江は、拳銃の銃把で、敦子の頭を殴った。ガッと鈍い手応えがあって、敦子が横倒しに倒れる。
咲江は銃口をとも子の背中——心臓の辺りに押し当てて、引金を引いた。銃声を、少しでも消したかったのだ。
ドン、と鈍い音がして、とも子の体がびくっと動いた。
それから、ゆっくりと体の力が抜けて行くのが分った。——やがて、とも子は仰向けに倒れて、動かなくなった。
——咲江の全身から汗がふき出していた。
人を撃った。殺したのだ。
咲江は、その場に座り込んでしまった。
大内が、苦しげに喘《あえ》ぎながら、起き上る。何度か咳込んだが、何とか立ち上った。
「咲江君……。大丈夫か」
と、かすれた声を出す。
「ええ……。敦子さんを見てあげて」
咲江は、まだとても立ち上れなかった。
「——痛い」
と、敦子は、呟《つぶや》くように言って、大内に抱き起こされると、「大内さん! 逃げて!」
「おい、しっかりしろよ」
「誰か後ろに……。私を殴ったのよ! 早く逃げて。私のことなんかどうでもいいから!」
「敵じゃないよ。咲江さんだ」
「え?」
「僕を助けようとしたんだ。——もうすんだ。大丈夫だ」
敦子は、ポカンとしている。落ちついて、大内からわけを聞くと、
「そうですか……」
と、頭を振った。「夢中になってて、咲江さんの声、全然聞こえなかったわ」
「ごめんなさいね、殴ったりして。——大丈夫?」
敦子は肯《うなず》いて、
「ええ。私、石頭だから」
と、言った。「でも——ちょっとこぶができてる」
「僕も命拾いした」
と、大内は息をついて、「さあ、ゆっくりしていられないよ。見付かったら大変だ」
「ええ……」
咲江は、拳銃を大内に返して、動かなくなった、黒田とも子を見下ろした。「——私が殺したんだわ」
「仕方なかったんだよ。さあ、行こう」
「あの子を連れて来ないと」
咲江はやっと我に返ったように言って、部屋を出た。
「待って」
と、大内が、とも子の死体を引きずって、奥の方へと隠す。
「入口から見えないようにしておこう。誰かがここを覗《のぞ》くかもしれない」
「——まだだめよ。足が見えているわ」
と、敦子は言った。
「じゃ、足を何とかして——」
「無理じゃない?」
「何かで隠すといいわ」
と、咲江は、歩いて行き、「このカーテンで。——こうやって」
仕切りになるカーテンを動かして、咲江はとも子の死体を何とか見えないようにした。
「これでよし。行こう」
明りを消し、三人は廊下へと出て行った……。
オフィスビルの最上階には、まだ明りが点《つ》いていた。
「あそこか」
と、入江は言った。「残業とはご苦労さんだな」
「本当にあそこに佐山昭一郎がいるんですか?」
と、松本が訊《き》いた。
「たぶんな。正確な情報かどうかは知らないが」
と、入江は言った。「じゃ、君はここで待っていてくれ」
と、ルミの方へ声をかける。
「あら、どうして?」
と、ルミは車にもたれて、「私も行くわよ!」
「しかし、危いよ」
「結構よ。それに、私と一緒の方が、通りやすいと思わない?」
ルミに言われると、入江も、いやとは言いにくい。何といっても、さっき、抱いてしまったばかりである。
全く、変った女だ。——しかし、入江の方は久しぶりの女の肌に、大いに感動したのも事実である。
「彼女たち、大丈夫かな」
と、松本が呟く。
「予定通りやるだけさ。——行くぞ」
入江たちは、ビルのすぐわきに車を残して、ビルの通用口へと歩いて行った。
「——誰かいる」
入江が声を低くして、「頭を下げろ」
通用口の辺りだけが明るい。男が二人、缶ビールを飲みながら、退屈し切った様子で、空の段ボールに腰をおろしていた。
「もう一本やるか?」
と、一人が訊く。
「もうよせ。アルコールが残ってると、やばいぜ」
「大丈夫さ。向うもへべれけに酔っている。分りゃしない」
「そんな時に限って、パトロールに捕まる。やめとくこったな」
フン、と相手は鼻を鳴らして、
「馬鹿らしいじゃねえか。上じゃ、楽しくパーティの最中だっていうのに」
「こっちは見張り、仕方ないさ。それが仕事だ」
「金になるといったって、俺《おれ》たちはたかが知れてるぜ。社長はあんなに大儲けしてさ」
「まあ、世の中ってのは、そんなもんだよ」
と、一人はタバコに火を点《つ》けた。
「そいつは普通のタバコかい?」
「当り前だろ」
「上じゃ、何をやってるのかな」
「新しい薬じゃないのか。あんなに女の子を集めるのは珍しいからな」
「評判がいいらしいじゃないか」
「らしいな。俺はそういう趣味はない」
「いい気分だぜ」
「そんなもんに、大金出すのも馬鹿げてるぜ」
と、一人はなかなかクールな男らしい。
「そうかな。やってみりゃいい」
「そんなものに金を出すなら、女の方がましだね」
「女と一緒にさ。——あの社長みたいにな!」
二人は、また缶ビールを飲み始めた。
入江は、首を振って、
「呆《あき》れたな。会社で宴会か」
「薬って……」
と、松本が言う。
「もちろん、麻薬だな。おそらく、裏で稼いでるんだ」
「それを治す薬も売ってるのかもね」
と、ルミが言った。「私も、楽しいことは好きだけど、それで体こわしちゃ、仕方ないと思うなあ」
「全くだ」
「ねえ。好きな男とも寝られなくなるし」
入江は、赤くなって、咳払いした。
「どうします?」
と、松本が訊く。
「あの二人だな。まず、何とか注意を引きつけといて、やっつけよう」
「じゃ、任せて」
と、ルミがニッコリ笑った。
「気を付けろよ」
ルミが、フラッと歩き出す。いかにも、少し酔ってるような足取りだ。
コツ、コツと靴音がして、二人の男がパッと止まる。
「誰だ!」
と、鋭い声が飛ぶ。
「ごめんなさい!——すっかり遅れちゃったの」
と、ルミが、ろれつの回らないしゃべり方で、「もう始まっちゃった?」
見ている松本と入江が唖《あ》然《ぜん》とするほどの名演技だった。
「何だ……。困ったな。どうする?」
「誰も入れるな、と言われてるんだ」
「そうだ。帰ってくれよ」
「あら、冷たいのね……せっかく楽しみにして来たのよ」
と、ルミは口を尖《とが》らして、「昭ちゃんだって、私のこと、待ってるはずよ」
「昭ちゃん? 誰だ、それ?」
「知らないの? 社長さんよ」
「佐山社長か」
男たちはふき出した。
「——昭ちゃん、か。親しいのかい、社長と?」
「そりゃ、わきの下のほくろまで知ってる仲ですもん」
「言ってくれるじゃないか」
「——ねえ、通してよ。後で付合ってあげてもいいからさ」
「本当か?」
と、男たちが目を輝かせる。
「勝負あった、だな」
と、入江が呟いた。
「中へ入りますよ」
「行くぞ」
ドアが開けられ、二人の男が、ルミを先に入れ、一人が中へ続けて入って行く。
入江と松本がダッと駆け出した。
「おい!」
何を言う間もない。ガツッと音がして、一人は入江の手にした拳銃の銃把の一撃で、アッサリのびてしまった。
「動くな!」
入江は、もう一人を壁に押し付けた。
「助けてくれ!」
と、震え上っている。
「二つ答えろ。エレベーターは?」
「そ、その先だ」
「緊急用のやつがあるだろう。社長が逃げるためのが」
「それは——」
銃口が、男の喉《のど》に、ぐいと食い込む、男は目を白黒させた。
「言うよ! 言うよ!」
「よし。——どこだ」
「直接、上から地下の駐車場へ下りるんだ。その……階段の裏手だよ」
「ありがとう」
と、入江は言った。
そう言ってから殴るのが、まあ、元刑事としての礼儀というものだったかもしれない……。
——非常ベルが、ビル全体に鳴り渡ったのは、その数分後だった。
ビルの最上階の明りが消える。
そして、大騒ぎしている女の金切り声が、ビルの中に響き渡った。
地下の駐車場。——階段の裏側、目立たない鉄のドアの奥に、ゴトンと音がして、ドアが開いた。
「早く逃げないと!」
と、若い男が出て来る。「警察が来ますよ、社長!」
「分っとる。車を早く!」
と、白髪の男があわてふためいて出て来る。
「急げ!」
もう一人、でて来た男がいる。
「——おやおや」
と、声がして、三人の男はギョッと立ちすくんだ。
「妙な所でお会いしますな」
と入江は言った。「ねえ、水島署長」
あの町の署長、水島である。
そして、三人の男たちは、何とも見っともない格好だった。ノーネクタイで、ワイシャツもボタンが外れたまま。ズボンも前のファスナーが上っていない有様だった。
「何だ、こいつらは?」
と、白髪の男が言った。
「佐山社長ですな」
と、入江は言った。「ちょっとドライブにお付合い願いたい」
「貴様——」
と、若い男が殴りかかろうとして、後ろからの、バットの一撃でのびてしまった。
「いい気持だ」
と、松本は言って肯《うなず》いた。
「いいか」
と、入江はぐっと水島をにらんで、「お前らのために、柴田君は死んだ。償いはさせてやる!」
「待ってくれ!」
水島は手を上げて、「私はただ頼まれた通りに——」
ルミの車がやって来た。
「早く乗って! パトカーが来るわ」
と、ルミが叫んだ。「あら、一人、ふえたの?」
「どうするかな」
「トランクに入れる?」
と、ルミは楽しげに訊《き》いた。