重いドアが開いた。
ベッドで、死んだように眠っていた男が、身動きした。——明りが射すと、まぶしげに目を細くする。
「起きてもらおうか」
と、入って来た男は言った。
「——何の用だ」
と、ベッドに起き上った男は、面倒くさそうな声で言った。
「日記の話さ」
「何だ。——手に入れたんじゃなかったのか?」
「入れたとも。しかし——」
と、男は笑って、「妙なこと考えたもんだね。ラテン語で書くとは」
「そうか?」
と、不精ひげの伸びた男は、皮肉めいた笑いを浮かべて、「残念だったな。お前ももう少し熱心に勉強しとけば良かったのに」
「俺《おれ》は手っ取り早く金になる道の方が向いててね」
男は、椅《い》子《す》にかけると、「なあ、いい加減にしろよ、兄さん」
「兄さんなんて呼ぶな」
と、笠矢光夫は言った。「お前なんか、弟じゃない」
「しかし、兄弟だぜ。顔を見りゃ、誰だってそう思う」
と、男は言った。「俺は兄さんを、困った奴《やつ》だが、やっぱり兄弟として、死なせたくないと思っている」
「そいつはどうも……」
と、笠矢はそっぽを向いた。
「なあ。あの日記に書いてあることを、教えてほしいんだ。それで、兄さんは自由になれる」
「自由か。——つまり、殺す、ってことだろう」
「やめてくれ」
と、男は、立ち上って、「俺は、人殺しじゃない」
「やらせたろう。同じことだ」
「しかし、自分で手は下さんよ」
「もっと悪い」
と、笠矢は言った。「薬の売買と同じことさ」
「何だって?」
「直接は殺さない。しかし、結局、売った相手を少しずつ殺してるんだ」
「俺がやらなきゃ、誰かがやるさ」
「そんなもんじゃない」
笠矢の目は鋭くなった。「いいか。あの薬は、これまでのどの麻薬より強力だ。もし、暴力団やマフィアに流れることがあったら……。どうなるか分ってるのか」
「他人のことに気をつかってる暇は、俺にはないのさ」
と、男は言った。「もう一度頼む。——あそこに書かれた知識が必要なんだ」
「断る、と言ってるだろう」
と、笠矢は言った。「殺すなり何なり、すればいい!」
男はため息をついて、
「確かに、俺たちもドジなことをしたよ、あの家を爆破させたりしてね」
「そして、俺の祥子を殺した! 何て奴だ、お前は!」
「いや」
と、男は首を振った。「祥子ちゃんは生きてる」
笠矢の目が大きく見開かれた。
「——何だと?」
「本当だ。あの跡を捜させた。死体は見付からなかった。代りに地下室から、誰かが這《は》い出した跡があったよ」
「本当か!」
笠矢は立ち上ろうとして、よろけた。そのまま、膝をついてしまう。
「——薬の量はまだ少ない。しかし、それ以上続けると、二度と立てなくなるよ」
「本当か! 祥子は生きてるのか!」
「ああ、本当さ」
笠矢は、床に座って、ベッドにもたれかかった。ゆっくりと息をついて、
「騙《だま》すつもりじゃあるまいな」
「騙すなら、もっと早く言ってる。やっとそれが分ったんだ。あそこの署長が知らせてくれてね」
と、男は椅子にまた、腰をおろした。「どうかな、兄さん?——生きて、祥子ちゃんに会いたいだろ?」
笠矢の額に、深いしわが寄った。——髪に白いものが混じっている。
疲れていた。堪え切れないほど疲れていたのだ。
「——分った」
と、笠矢は息をついた。
「話してくれるのか?」
と、男は目を輝かせた。「本当だね?」
「ああ」
笠矢は肯いた。「しかし、祥子と会うまでは、中身はしゃべらんぞ」
「なかなかしぶといね」
と、男は笑った。「どうせ遠からず——」
ふと、男は言葉を切った。
「何の音だ?」
廊下をドタドタ駆ける音がした。ドアが開いて、白衣の男が飛び込んで来た。
「火事です!」
「何だと?」
「火が地下から——早く逃げて下さい!」
「馬鹿め! 何とかして消せ!」
と、廊下へ飛び出して、男は愕《がく》然《ぜん》とした。
もう、廊下に白い煙が流れ込んで来ていたのだ。
「消防署へは?」
「いえ、まだ……」
「よし。連絡はするな」
「でも、患者はどうします?」
男は、首を振った。
「放っとけ」
「焼け死にますよ!」
「構わん。——もし逃げられたりして、警察が見付けたらどうする!」
男は、部屋の中へ戻ると、「兄さん、一緒に来るんだ」
と、兄のわきを支えて立たせた。
「患者を助けろ!」
「ごめんだね。何もかも焼ければ、明るみに出なくてすむ」
「お前って奴は——」
「何とでも言えよ」
廊下へ出ると、男は、「おい! 手伝え! おい!」
と、大声を出した。
「畜生! どこに行ったんだ!」
「手伝いましょうか」
と、声がした。
ハッと振り向いた男は、目をみはった。
「その節はどうも」
と、咲江は言った。「笠矢さんですね」
「君は……」
「祥子ちゃんの友だちです」
と、咲江は言った。
男が笠矢を投げ出すと、拳《けん》銃《じゆう》を抜いた。
銃声が廊下に鳴り渡った。——男がゆっくりと倒れる。
「間に合った!」
と、大内が駆けて来る。
「大内さん。笠矢さんよ」
「そうか。この男は——」
「弟です」
と、笠矢が言った。「狂ってしまった。こうなっても、仕方ない奴です」
「立って下さい。煙だけのつもりが、本当に火事になってしまった」
「足に力が……。薬を射たれていたんです」
と、笠矢は言った。「祥子は本当に無事なんですか!」
「お父さん!」
煙の中から、少女が駆け出して来た。
「祥子……。生きてたんだな!」
笠矢は、娘をしっかりと抱きしめた。
「——早く逃げよう」
と、大内は促した。
「患者が——」
「今、もう一人が、鍵《かぎ》をあけて回っているから。さ、咲江君、笠矢さんを支えて」
「はい! 非常階段がそっちにあります」
「よし、行くぞ」
急がなくてはならなかった。火は、もう廊下をなめ始めていたのだ。
「——見て。火よ」
と、ルミが言った。「きれい」
「たき火じゃないぞ!」
と、入江が言った。「病院が燃えてる!」
「何だと!」
佐山が大声を上げた。「あそこには——」
「薬を作る研究所があった。そうだな?」
入江が佐山のえり首をぐいとつかんだ。
「貴様、あそこの患者たちを実験台にして、薬の効果をためしたんだろう!」
「はなせ!——俺はな、政府の高官と親しいんだぞ!」
と、佐山はわめいた。
「いくら親しくても、お前が麻薬パーティを本社ビルでやったと分りゃ、そっぽを向くさ」
と、入江は言った。「急いでくれ」
「任せて!」
ルミは腕まくりした。「つかまってるのよ……」
猛然と車が突っ走った。
——入江は、後になっても、よく無事に病院まで駆けつけたものだ、と不思議でならなかった……。
病院の近くへ来て、やっと車のスピードは「普通」におちた。
「凄《すご》い人だわ」
病院が、夜闇にも鮮やかに、炎をふき上げていた。火の粉が、雪のように舞っている。
その周囲を、消防車が囲み、そこに、TVカメラや新聞のカメラマンがひしめいているのだった。
「——咲江は?」
と、松本が言った。
「あの子は大丈夫よ」
と、ルミが言った。
「でも、この火じゃ……入江さん!」
「うん。捜しに行こう」
「こいつらは?」
と、松本が佐山を見る。
「そうか、忘れてた」
入江は、拳《こぶし》を固めて、佐山の顎《あご》を一撃してやった。佐山はのびてしまう。
「トランクのおっさんは?」
と、ルミが訊《き》く。
もちろん、水島のことである。
「放っとけ」
と、入江は言って、「こいつを見張っててくれ」
と、拳銃を渡そうとした。
「ご心配なく」
ルミは、しっかり、自分の拳銃を持って来ていたのだ。「動いたら容赦なく撃つわ」
「任せるが、殺すなよ」
と、入江は言うと、車を出て、駆け出して行く。
松本も、あわてて後を追ったのだった。
しかし——すでに火は完全に建物をなめ尽くしていた。
近付くこともできない。水をかけてはいたが、燃え尽きようとしている感じだった。
「——大丈夫かな」
と、入江は青くなって言った。「もし……咲江に死なれたら、俺は……」
「どうするの?」
と、後ろで声がした。
入江が振り向いて、飛び上ったのは、もちろんである。そして抱きしめようとしたのだが……。
咲江は、松本の腕の中へ飛び込んで行ってしまったのだった……。
「お父さん……」
と、祥子が言った。「大丈夫?」
「ああ」
笠矢は、ソファに横になって、疲れてはいるようだったが、微笑《ほほえ》んで見せた。
「すみませんね」
と、入江は言った。「ゆっくり休んでいただきたいんですが、ともかく、あなたのお話をうかがわないと」
「分っています」
と、笠矢は肯《うなず》いた。
「さ、どうぞ」
と、咲江が言った。
例の、ルミを感動させた「ぞうすい」である。笠矢は一口食べて、
「旨《うま》い!」
と、声を上げた、「いや、これはすばらしい味だ」
「ファンがふえた」
と、ルミが言ったが、咲江と松本以外は誰も意味が分らなかった。
笠矢は、皿をきれいに空にしてしまうと、
「患者たちは助かったんですか」
と、訊いた。
「やけどをした人が数人いますが、一応全員逃げられたようです」
と、大内が言った。
「ごめんなさい」
と、敦子が、小さくなっている。「本当に火事にしちゃって」
「いや、あれで良かったのさ」
と、笠矢が言った。「あそこには、まだずいぶん薬の原料が残っていたはずです」
「笠矢さん、あなたと、この麻薬との係りは?」
「ええ」
と、笠矢は肯いて、「祥子が話したと思いますが、もともと、私は自衛隊の幹部に頼まれて、細菌兵器の研究をしていました。——もちろん、今となっては、どうしてあんなことをしたのか、と思いますがね」
「その研究で感染したとか」
「いや、実はそうじゃないのです」
と、笠矢は首を振った。「その研究を進めている内、細菌への抵抗力をつける薬を研究することになりました。それなしじゃ、使えませんからね、せっかくの兵器で、味方が死んでしまう」
「何て時代遅れな話なの!」
と、敦子が言った。
「全くです。——その時、解毒剤の研究の過程で、全く新しい種類の麻薬ができてしまったのです。これにはびっくりしました」
「それを、幹部の人間は承知で?」
「もちろんです。間に立ったのが、私の弟でした。決して悪い奴《やつ》じゃなかったのですが、金づかいの荒い男で、その仕事でも、相当の裏金を取っているはずです」
「なるほど」
「一方、その開発を技術と資金の両方から手伝っていたのが、K製薬の佐山です。当然、利権やらうまみがたっぷりあったんですね」
「それで?」
「私は、その薬のことを、弟に話しました。——それを聞いて、弟は、気が変ったのです。兵器の研究で得られる金に比べ、新種の麻薬をどんどん作り出し、売り捌《さば》けば、凄い金になると気付いたのです」
「すると——」
「問題の幹部も、弟は説得して仲間に入れました。そして細菌兵器の研究はなかなか進まないと上には言わせといて、自分たちはその研究費を、麻薬の方に使っていたのです」
「ひどい話ね」
と、ルミが言った。
「私は、何しろ世間知らずで……。しかし、その内に、兵器の研究にもいやけがさして来ました。私は辞表を出して……。弟はいい機会と喜んだのです」
「どうしてです?」
「麻薬のことを私が知れば反対すると分っていたんですよ。却《かえ》って私がいない方がいい、と思っていたのです」
「それで——辞めたのですか」
「辞める条件として、一年間、東京から姿を消すこと、と言われました。これは国家の機密上、重要だから、と」
「なるほど」
「私も、そんなものか、と思い、たいして気にもとめませんでした。——それで、ああして、田舎町へと移ったのです」
「国家機密か。——調法な言葉だ」
と、入江は言った。
「全くですね」
と、笠矢は肯いて、「国家機密だ、と言われると、何でもまかり通る。実体は、どれも大したものじゃないのに、です」
「このぞうすいの作り方の方が、よっぽど重大な秘密よ」
と、ルミが言ったので、みんなが笑った。
「——町の人たちの何人かが、私たちに食事を作ってくれたり、届けてくれたりしていました。その謝礼も、出ていたはずです」
「例の〈永井かね子〉だな」
と、入江は言った。
「ところが、弟たちの方が困ってしまったのです」
と、笠矢は続けた。「薬が大量に生産できない。すぐ変質して、使いものにならなくなってしまうのです。これは、熱処理の問題でしてね。簡単なことなのですが、却って思い付かなかったんですな」
「それでまたあなたに——」
「しかし、今度は、本当のことを打ちあけなくてはなりません。——そこで、弟たちは、私一人を連れ戻ったのです」
「薬作りに協力しろ、と?」
「ええ。もちろん私は拒否しました。すると、私をあの病院へ閉じ込めた、というわけです」
「祥子さんは……」
「私が娘を可愛《かわい》がっていたことを知っていますからね。娘に会いたい気持がつのれば協力すると思っていたのでしょう。しかし——そうはいきません」
と、首を振り、「あの薬が大量に出回れば大変なことになります。新たなマフィアが生れるでしょう。私も、遅まきながら、その問題に気付いたのです」
「よく辛抱して——」
「いや、決して殺されないと分っていましたからね。私が必要な間は」
「なるほど」
と、入江は肯いた。「あの日記は……。結局燃えてしまったのですか」
「ああ、あれですか」
と、笠矢は言った。「弟は、私がどこかに薬の製造のメモを残していると信じていました。しかし、どこにあるのか、分らなかった」
「あの日記が——」
「そうだ、と弟は思ったのです。ともかくラテン語で書かれていて、しかも祥子が、私を探す手がかりに、とあなたへ渡したのですから」
「どうしてそのことを知っていたんですか」
「あの家へ、よく食事を運んでくれたおばさんがいて……。花田さん、といったかな」
殺された、花田あやだ。いや、自殺と見せかけて、殺されたのだ。
「その人が、話を立ち聞きして、水島という署長に話したのですよ」
「それで、口をふさがれた、というわけか」
と、入江は言った。
「殺されたのですか」
「ええ」
「何てことだ……」
と、笠矢はため息をついた。
「なぜ、あの家を爆破したんです?」
「あれは、違うのです」
と、笠矢は言った。「私と祥子が、あの町にいることを、自衛隊の他の幹部が知って、問題になってしまったのです。弟たちは困りました。理由を説明しなくてはならない。それで、細菌に感染したと話したのです」
「なるほど。それで、もみ消すために——」
「ええ。私と娘を殺して、証拠をなくそうとしたわけです。私はそれを知って、ますます口をつぐんでしまいました。弟にとっても、それは予想外のできごとだったのです」
「すると、我々が警察に追われたのは、結局……」
「細菌兵器のことを真に受けた幹部が、その秘密の洩《も》れるのを恐れて、手を打ったのでしょう。申し訳ないことです」
——大内が、やり切れないというように、
「下らない!」
と、言った。「そんなでたらめのために、柴田君が死んだのか!」
「全くだ」
入江は肯《うなず》いた。「しかし、笠矢さん、今の話を、マスコミに公開していただけますね」
「もちろんです。弟は報いを受けたが、グルになっていた幹部も、佐山も、水島署長も、罪を償うべきですよ」
と、笠矢は言った。
「お父さん」
と、祥子は甘えたように言って、父親の胸に顔を伏せた。
「弟たちは、あの病院の理事長におさまり、薬の実験に、患者を使っていたのです。私が殺してやるべきでした」
と、笠矢は、祥子を抱いて、言った。
少し間があった。
ホッとしたような、力の抜けたような、空白だった。
「——笠矢さん」
と、咲江が言った。「あのラテン語の日記、あれは何が書いてあったんですか?」
「ああ、あれですか」
笠矢は微笑んで、「退屈でしたので、昔習ったラテン語を思い出しながら、訳していたのです。祥子の本棚にあった童話をね」
「そんなこと、言わなかったじゃない」
と、祥子はふくれっつらになって言った。「てっきり、大切なものだと思ってた」
「すまん。しかし、いくらお父さんでも、ラテン語で、そうむずかしいものは書けないよ」
と、笠矢は言った。
「——童話か」
と、松本が言った。「それなら読めたかもしれないな」
入江が、息をついて、
「よく分りました」
と、肯いた。「笠矢さん。すると、薬の作り方の秘密は、どこにも書いておかなかったんですな」
「化学式にして、残してあります」
と、笠矢は言った。「しかし、決して人の目には触れませんよ」
「分りました」
入江は立ち上った。「ともかく、今日はゆっくり休んで下さい」
「ありがとう。——祥子、一緒に寝るか」
「うん」
祥子は肯いて、「でも、別のベッドでね」
と、言った。
みんなが笑う。——なごやかな空気だった。
「じゃ、ともかく今夜はここでまた寝ましょ」
と、ルミが欠伸《あくび》をした。
「ねえ」
と、咲江がそっと松本に言った。
「何だい?」
「人の目に触れない所って、どこだと思う?」
「さあ……。分んないな」
と、松本は首をかしげた。
「分らなくてもいいのね、きっと」
咲江はそう言って、「じゃ、おやすみなさい」
と振り向くと——。
祥子が、ちょっといたずらっぽい笑顔を見せて、咲江を見ている。そして、祥子はそっと人さし指を自分の頭に当てた。
アッと咲江は声を上げそうになった。
そうか。——祥子が記憶しているのだ!
一目見た車のナンバーをいつまでも憶《おぼ》えている祥子のことだ。本気で憶えれば、難解な化学式も頭へ焼きつけられるだろう。
祥子はそれに気付かれないために、わざとあの日記を依子に渡したのかもしれない。実際、笠矢の弟たちは、日記帳を追いかけていたのだ。
「どうかしたのかい?」
と、松本が不思議そうに訊《き》く。
「別に」
と、咲江は首を振って、言った。
「あら、いけない」
と、ルミは口に手を当てて言った。「忘れてたわ。車のトランクに、あの水島ってのを、入れたままだった」