屋上は、強い風が吹きつけていた。
小田恭子は、屋上に出ると、髪がたちまち見えないいたずらっ子にかき回されたようになってしまうので閉口した。しかし、ここへ呼び出したのは——ここを指定したのは自分なのだから、仕方ない。
それに……。そうだわ、と小田恭子は思った。
こんな風に、強い風が吹いている方が、ふさわしいじゃないの。——決闘[#「決闘」に傍点]の場面には。
西部劇でも、決闘の時はなぜか決って風が吹いている。
決闘ね。——恭子は、わざと冗談めかして考えようとしている自分に気付いていた。一体どんなことになるのか、見当もつかないのだ。
——二時五十八分。恭子の腕のデジタル時計の文字は、そう出ていた。
恭子は、つい、事務服のポケットを無意識に探っている自分に気付いた。もうタバコはやめたんじゃないの。彼と付合い出してから。
そう。梶原真一と付合い始めて、最初にやったのが、タバコをやめることだった。
梶原真一は、自分がタバコを喫《す》わないというだけで、別に、恭子にやめた方がいいと言ったわけでもなかったのだ。ただ、二人で喫茶店に入り、話をしている時、隣席の人のタバコの煙が流れて来て、梶原の顔にからまった。
その時、梶原は、ちょっと顔をしかめたのである。それを見た時、恭子はタバコをやめようと決め、またそれはいとも簡単なことだった。
高校生のころから喫っていて、何度か、
「やめよう」
と、思い立ちながら、結局長続きしなかったのに……。
それが、好きな人のためなら、苦痛でないどころか、楽しみですらあるのだ。恭子は、この四か月、全くタバコに手を出していなかった。
それが今は……。緊張しているせいだろう。つい、ポケットの中を探ってしまった。
三時。——オフィスでは十分間の休憩時間で、みんながホッと息をつき、腰をのばし、立ち上ってお茶をいれに立って行く……。
でも、こんな風の強い日に、屋上へ出て来る者はあるまい。それに、もう十月も末で、風はいささか冷たくさえ感じられる。
小田恭子は二十四歳のOL。この十二階建のビルの八階にある〈総務部〉の所属である。
「恭子さん」
と、呼ばれて、恭子はギクリとした。
「松井さん……。すみません、こんな所に来てもらって」
いつやって来たのか、気付かなかったのである。やはり、風が強いせいだろう。
松井見帆は、風で髪が乱れても、大して気にしている様子はなかった。
「いいわよ、気持いいじゃないの、風に吹かれるのも」
と、松井見帆は言って、「——そのビルが建つと、見はらしが悪くなるわね」
と、建築中のビルの方を見る。
「ええ……」
「私に用って?」
恭子は、一度深呼吸をして、唇をしめした。——松井見帆は、職場の先輩ではあるが、個人的な問題では対等だ。何も、遠慮することなんか、ないんだ。
そう何度も自分に言い聞かせていたのだったが、いざ、こうして面と向うと……。やはり、今年二十九歳の、ベテランの落ちつきは、恭子をひるませるに充分だった。
「あの——仕事のことじゃないんです。あの——個人的なことで、お話が……」
「そうでしょうね。わざわざこんな所へ呼び出すくらいだもの。何なの?」
松井見帆は、別に迷惑がっているとか、敵対心を抱いているという様子ではなかった。
大体が、よく気が付くし、後輩の面倒もよく見てくれる。——ただ、しくじったりした後輩のOLが、謝ろうとせずに言いわけしたり、ごまかそうとすると、猛烈に怒る。その怖さは、大変なものだった。
恭子は、思い切って、正面から松井見帆を見つめて、言った。
「梶原さんのことなんです。——私、梶原さんを好きです。愛してるんです」
一気に言って、松井見帆の様子をうかがう。しかし、見帆は、いつもの冷静な表情を崩さなかった。
「だから?」
と、促《うなが》す。
「松井さんと……今、お付合いしてますよね、梶原さん」
「どこで聞いたの、そんなこと」
「みんな知ってます。噂《うわさ》してるし……。私も——私も見ました。この間の土曜日、梶原さんと、あなたがホテルに入るとこ……」
恭子の声は、勢いを失った。
「後を尾《つ》けてたの?」
「すみません」
と、恭子は謝った。「でも——私、真剣です。正直言って、迷った時期もありました。でも、今は自分の気持がはっきり分ってるんです。梶原さんのことが好きなんです」
見帆は、ちょっと小首をかしげると、
「私に、諦《あきら》めろ、っていうことね?」
「あの——」
と、言いかけて、恭子は息をつき、「そうです。勝手な言い方ですけど。お願いします。あの人から……手を引いて下さい」
「間違わないでね。あの人の方が、私を誘って来たのよ」
「ええ……。でも、松井さんは、梶原さんと結婚するつもりはないんでしょう?」
「あら、私じゃあの人の妻にはなれない、っていうのね?」
「いえ——そういうつもりじゃ……」
と、恭子は詰った。
風が吹く。——しばらく、どちらも口をきかなかった。
松井見帆が、ちょっと肩をすくめた。
「いいわ」
恭子は顔を上げて、
「え?」
「結婚なんて面倒でね。あなたがそんなに梶原君にご執心なら、譲るわよ」
恭子の頬《ほお》が赤く染まった。
「本当ですか!」
「今度は信用しないわけ?」
と、見帆は苦笑した。
「いいえ……。ありがとう! 私、ご恩は忘れません」
「よして、よして、そんなに頭下げるのは。——ま、せいぜい頑張ってね。話はそれだけ? じゃ、私、戻るわよ。お茶を一杯飲みたいから」
「ありがとう……」
と、恭子はもう一度言った。
しかし、もう松井見帆は、恭子に背を向けて、足早に歩き出していた。
屋上で一人残った、小田恭子が、いささか見っともないほどスカートを翻《ひるがえ》して、屋上を跳《と》びはねて回ったとしても、まあここは大目に見なければならないだろう。
なぜといって——もちろん、小田恭子は、自分が今、悲劇の種をまいたのだ、などとは、思ってもみなかったのだから……。