「どうしました?」
と、やって来たのは殿永だった。
「ちょうど良かったわ! 見て下さい」
亜由美は、床に落ちたその人形を指さして、「この人がすりかえたんだわ、ウェディングケーキの人形を」
「何の話だよ!」
と、若者は目を丸くして、「これは、今そこに落ちてたのを拾ったんだ」
「下手《へた》な言いわけはやめなさい」
と、亜由美はドスのきいた声で、「また犬をけしかけるわよ」
「やめてくれ!」
と、若者はあわてて首を振った。
「君の名前は?」
「僕は……」
「まあ結木君」
と、声がした。
「松井さん!」
松井見帆がやって来るところだった。
「どうしたの、一体?——この人、結木健児君です。うちの社で働いてるアルバイトの子ですわ」
「そうですか」
殿永は肯くと、「実は——」
と、警察手帳を取り出した。
「まあ、警察の方?」
「そうです。実は、梶原さんの所へ、死を予告する手紙が届きましてね」
「何ですって?」
「それで用心しているわけです。この結木さんというのは、何の用でここに?」
「さあ……」
見帆は当惑した様子で、「結木君。——正直に言って。何の用だったの?」
「それは……」
と、結木はうつむいてしまう。
「でも、刑事さん。結木君はとても真面目な子です。何か悪いことをするなんて、考えられません」
「かもしれませんがね、私としては一応、用心のため、という意味もありまして」
「そうですよ」
と、亜由美は言った。「ドン・ファンにガブッと一発やらせてやりゃ——」
「いやいや、塚川さんも落ちついて」
と、殿永はなだめた。「ともかく、この人形を持っていたというのは……」
「拾ったんだ。本当ですよ」
と、結木は言った。「僕は——その——」
「何だね?」
結木は、ふっと肩を落として、言った。
「あの——僕は、小田さんの花嫁姿を一目見たくて」
「結木君。——じゃ、恭子さんのことを好きだったの?」
と、見帆が訊いた。
「ええ……。でも、何もしません! 本当にただ、一目見ようと思って、ここへ来ただけなんです」
「怪しいもんね」
と、亜由美は腕を組んで、「あの手紙もあんたでしょ」
「違います! 僕はそんなことしません」
殿永は、ため息をついて、
「ここでやり合っていてもきり[#「きり」に傍点]がないな。——ともかく、披露宴がすむまで、君をここの警備の人に見張らせておく。後でゆっくり話を聞く。いいね?」
「——分りました」
と、結木はやっとこ立ち上った。
「心配しないで」
と、見帆が言った。「私も一緒に残っていてあげるから」
「すみません」
と、結木は、うつむいた……。
「ドン・ファン、どうしたの?」
と、亜由美は言った。
ドン・ファンが急に駆け出したのだ。
「ちょっと! どこに行くのよ!」
亜由美はあわてて、ドン・ファンを追いかけた。ドン・ファンは、梶原たちの披露宴会場へと飛び込んで行ったのだ。
中は、まだ花嫁が退席したままなので、誰やらのヴァイオリン演奏をバックに、みんな食事をしていた。正面の席には、梶原が一人で、いささか落ちつかない様子で、座っていた。
と——その会場のど真中を、
「ワン! ワン!」
と、甲高《かんだか》い声で鳴きながら、ドン・ファンが駆け抜けて行ったのである。
誰もが唖然《あぜん》とした。そしてドン・ファンは、梶原めがけて、飛びかかったのである。
「ワッ!」
梶原が飛び上って、「助けて!」
と、逃げ出す。
「ドン・ファン! やめて!」
と、追いかけて来た亜由美が叫ぶ。
梶原が、ドン・ファンに追われて、逃げ出した。
すると——突然、ドカン、という音と共に、たった今まで梶原の座っていた椅子《いす》が、吹っ飛んだ。それもバラバラになって、四方へ飛び散ったのである。
煙が立ちこめて、悲鳴が上る。
「外へ出て!」
と、殿永の怒鳴《どな》る声。「外へ出るんだ!」
客たちは、我先に、会場から逃げ出したのだった……。
「いや——命拾いしましたよ」
と、梶原はいまだ呆然《ぼうぜん》としている。
「真一さん……」
小田恭子は、真青な顔で、しっかりと梶原の手を握りしめていた。
「まあ、ともかく、けが人もなくて、良かった」
殿永は汗を拭《ぬぐ》って、「お手柄ですな、ドン・ファンの」
「そりゃ、しつけが行き届いています」
と、亜由美は鼻が高い。
——ロビーのソファに座って、やっと梶原もショックから立ち直った様子。
「しかし、一体どうなったんです?」
「もちろん、調べてみなきゃ分りませんが」
と、殿永は言った。「椅子の下、座る所の裏側に、爆弾のような物をセットしておいたのでしょう」
「そうか……。何だか火薬みたいな匂《にお》いがしたのを憶えてる」
「ドン・ファンが、それをかぎつけたんですわ」
と、亜由美は肯《うなず》いて、「やっぱり日ごろの教育が——」
「ゴロ寝ばっかりしてるくせに」
と、聡子がからかった。
「ともかく、その犬には何とお礼を言っていいか……。好物は何です?」
と、梶原が訊いた。
「そりゃ、松阪牛のステーキです」
「亜由美の好みでしょ」
「うるさいわね」
——殿永が咳払《せきばら》いして、
「ともかく、昨日の手紙が、どうやら本当だったことは確かですな」
と、言った。
「さっき、初めて聞いて」
と、小田恭子が不安げに、「びっくりしました。どうしてこの人のことを、そんな風に……」
「心配するなよ」
と、梶原は、恭子の肩を抱いて、「世の中には、いろんな奴《やつ》がいるんだよ」
「その通りです」
殿永は肯いた。「困るのは、何も思い当ることがなくても、勝手に恨みを抱く人間というのが、いることです」
「どうしたらいいんでしょう」
と、恭子は言った。
「何も怖がることはない。予定通り、ハネムーンに発《た》とう」
と、梶原は言った。
「どちらへおいでです?」
「ハネムーンですか? フランスです。後、ローマを回って……」
「私、ボディガードでついて行きたい」
と、聡子が言った。
「ハネムーンのツアーに一人で?」
亜由美がからかって、「さぞ楽しい旅になるわよ」
みんなが笑って、大分、雰囲気《ふんいき》がほぐれて来た。
「外国へ行かれるのなら、却《かえ》って安全かもしれませんね」
と、殿永は言った。「荷物を、もう一度よく点検されるようにおすすめしますよ」
「分りました」
梶原は肯いて、「じゃあ……。お客さんたちにお詫《わ》びをしないと」
「私から、事情を説明しましょう」
殿永が腰を上げる。
——梶原と恭子が、殿永と一緒に行ってしまうと、亜由美は息をついた。
「やれやれ、ね」
「——でも、誰がやったんだろ?」
と、聡子は言った。
「あの、結木とかいうのが怪しい」
「そう?」
「でも、怪しすぎるような気もする」
「何よ、それ?」
「あの椅子に爆弾仕掛けたとしたら、披露宴の始まる前でしょ。そうなると、あの結木ってのは、ずっとここでぐずぐずしてたことになるわ」
「なるほどね」
「それも馬鹿みたいじゃない?」
「言えてる。——じゃ、犯人は他にいる、ってわけ?」
「うん。田崎って、あの課長」
「スピーチした人? どうしてあの人がそんなことするの?」
「知らないわ。でも、あんなつまらないスピーチした奴《やつ》、逮捕したっていいわよ」
「無茶言って!」
と、聡子が笑った。
すると——そこへ松井見帆が青くなって、駆けて来た。
「大変なんです!」
「どうしたんですか?」
「結木君が——自殺を図ったんです、手首を切って」
「ええ?」
亜由美は跳び上った。「聡子! 一一九番へ電話!」
「OK!」
聡子は、すばやく電話に向って駆け出していた。
亜由美の言葉は、やはり人を動かす力があるらしかった……。