「いくら土曜日で、特に予定がないからって——」
と、亜由美は言った。「何でわざわざ成田くんだりまで出かけて行かなきゃいけないの?」
「知らないわよ」
と、聡子が言った。「亜由美が行こうって言い出したのよ」
「しかも、殿永さんに運転させてね。分ってるのよ、自分でも」
と、亜由美は肯《うなず》いて、「グチっぽくなったのね。いやだわ、年齢《とし》のせいなのかしら……」
「ワン」
と、助手席でドン・ファンが吠《ほ》えた。
運転していた殿永が笑って、
「まあ、たまにはドライブもいいんじゃありませんか」
と、言った。「今はそう混む時期でもないし」
「私も今度は外国へ行って……。向うで外国人の夫でも見付けようかしら」
と、亜由美が言った。
「亜由美、言葉できないでしょ」
「向うが日本語を憶えるわよ。こんな魅力的な女のためなら」
「自分で言ってりゃ世話ないや」
と、聡子は笑った。「——殿永さん、間に合いますか? 梶原さんの飛行機は——」
「大丈夫。充分に間に合いますよ」
と、殿永は肯いて、「しかし——ああいう手紙を出す人間は、かなり執念深いですからね。用心に越したことはありません」
「結木って人は、釈放されたんでしょ?」
と、亜由美が訊く。
「ええ。手首の傷も大したことなくてね」
「もし、本当に[#「本当に」に傍点]彼が犯人だったら? 梶原さんが帰国してから釈放した方が……」
「監視をつけてあります。もし彼が成田に来れば、現行犯というわけです」
「なるほどね」
と、聡子は感心して、「さすがは殿永さん!」
「でも——」
と、亜由美はちょっと不安げだ。「空港は凄《すご》い人かもしれませんよ。見失ったらどうするんです?」
「大丈夫。この時期に日本に帰って来る旅行者なんか、そういやしませんよ」
と、殿永は自信たっぷりに肯いた。
「ちょっと——」
と、亜由美は叫んだ。「聡子、どこにいるの!」
「ここ……。ここよ!」
と、聡子は飛び上って手を振った。
「殿永さんは?」
「知らないわ!」
「全くもう!」
「ワン!」
ともかく——人また人の波、また波……。
「殿永さんもいい加減なんだから!」
成田の到着ロビーは、人で溢《あふ》れていた。また、いくつかのツアーがかち合ったようで、山のようなみやげ物を下げた乗客がひしめき、押し合い、ぶつかり合いながら、ロビーを埋めている。
亜由美たちは、びっくりしている暇もなく、離れ離れになってしまったのだった。
大体、肝心の梶原たちの便はどうなってるんだ?
亜由美は表示へ目をやった。——もう着いてる!
予定より早く着いてしまったのだ。わざわざ迎えに来た時に限って、こうなのである。すると、梶原と恭子は、もう出て来てしまっているかもしれない……。
しかし、実際には、梶原たちは、荷物を受け取るのに少し手間取って、ちょうど到着ロビーへ出て来たところだった。
「——凄い人出ね」
と、恭子が言った。
「うん。ともかくタクシーをつかまえて、静かな所へ行こう。これじゃ何が何だか分らないよ」
両手一杯に荷物をかかえ、肩からショルダーバッグも下げている梶原は、息を切らしていた。何しろ、ハネムーンというのは、おみやげを買って行く相手が多すぎて、大荷物になるものなのである。
「あ、そうだわ」
と、恭子が言った。「ね、ごめんなさい。実家《うち》へ電話して来るわ。成田に着いたらかけるって言ってあるの。ここで待っててくれる?」
「ああ、いいよ」
正直、この人ごみの中、荷物に囲まれて立っているというのは楽じゃない。これが結婚して何年もたってりゃ、
「そんな電話、どこかに落ちついてからだって、三十分と変らないじゃないか」
とでも言うところだが、そこはやはり新婚の弱味(?)である。
電話を求めて恭子の姿は人の波間に消え、梶原は、息をついて、荷物番よろしく、突っ立っていたのである。
欠伸《あくび》が出る。——やはり、時差というやつのせいなのである。
もちろんくたびれてもいる。十何時間も飛行機に乗って来たのだから。
まあ、しかし……。ハネムーン帰りで、あんまり欠伸ばっかりしてる、ってのも、いささかみっともないものだが。
そうか。——披露宴の時の、あの爆弾騒ぎはどうなったんだろう? 犯人は捕まったのかな。
あの時の刑事が、何か連絡してくれるとか言っていたが……。
もし、犯人がまだ捕まっていないようならば、また命を狙《ねら》われるってこともあり得るわけだ。——冗談じゃないよ、全く!
すると、誰かが梶原にぶつかりそうな勢いで、すぐわきをすり抜けて歩いて行った。同じツアーにいた、やはり新婚夫婦の、妻の方である。
梶原と恭子は至って楽しかったのだが、その夫婦は出国早々、喧嘩《けんか》ばかり。添乗員がハラハラして、気が気じゃない様子だったのだ。
どうやら、カッカしながら一人で行ってしまった妻の様子では、帰国早々離婚ってことになるかも……。
旦那の方はどこかな?
梶原は、体をねじるようにして振り返った。その瞬間、人ごみの中から、サッと突き出された手が、ナイフをつかんで、シュッと梶原に切りつけていた。
体をねじった瞬間で、ショルダーバッグにナイフが切りつける格好になった。バッグがパッと裂け、中からガイドブックやパスポートがドドッとこぼれ落ちる。
梶原は、顔を戻し、みごとに切られたショルダーバッグと、人ごみの中へ素早く消えるナイフの銀色の光を見た。
——ドスン!
梶原は真青になって、その場に尻もちをついてしまったのだ。
殺されかけた……。また[#「また」に傍点]、やられるところだったんだ!
「どうしました?」
と、誰かが声をかけて来た。「大丈夫ですか?」
「あ、あの……」
梶原は、やっとの思いで立ち上ると、「ハネムーンの帰りなんですが……」
「何だ、そうか」
その男は笑って、「あんまり無理しないことですね」
と、梶原の肩をポンと叩いて、行ってしまう。
梶原はポカンとして、人ごみの中に突っ立っていた……。
「いや、全く面目ない」
と、殿永は恐縮しっ放し。「この時期は空《す》いてる、などと同僚が言うもんですから……」
「でも、何ともなくて良かったわ」
と、亜由美は言ったが、当の梶原はまだ青ざめているし、恭子は、
「これから毎日、あなたが帰って来るまで心配でたまらないわ」
と、今にも泣き出しそう。「あなた……。死なないでね」
「当り前さ。こんな可愛い女房を残して、死ねるもんか」
「本当ね?」
「約束するよ」
とか言って、梶原は恭子を抱き寄せて、キスしたり……。
亜由美、聡子、ドン・ファンの三人[#「三人」に傍点]は、見ちゃいられない、というわけで、オーバーにそっぽを向いていた。
——梶原たち、それに殿永や亜由美たちは、一旦、空港近くのホテルに落ちついていた。
「でも、あなた」
と、恭子が言った。「こんなに執念深く狙われるなんて。よっぽど女の人にひどい仕打ちをしたんじゃないの?」
「冗談じゃないよ。僕は絶対にそんなことはしない!」
「信じてるわ」
今度はしっかりと二人で手を取り合って……。亜由美たちは、何だか当てられに来ているみたいである。
「ま、無事で何より!」
と、殿永が気を取り直した様子で「今夜はここで食事をしましょう。みなさん、私におごらせて下さい」
「あら、悪いわ」
と、亜由美が言った。「ねえ聡子」
「そうね。でも、断るのも却《かえ》って失礼かも……」
「それもそうね。じゃ、遠慮なく」
こういう納得《なつとく》は早いこと。
「あら、でも——」
と、恭子がためらう。
「いや、ぜひごちそうさせて下さい」
「でも、こんな服でいいかしら?」
どうやら、辞退する気はなかったらしい。
「じゃ、ちょっとお化粧を直して来ますわ」
と、ラウンジを出て行く。
「——梶原さん」
と、殿永が改まって、言った。「実は、奥さんがいらっしゃらない間に、うかがいたいんですがね」
「何ですか?」
「松井見帆とあなたのことです。あなたは松井見帆と一時付合っておられた。しかも、かなり深い付合いだった、という話を耳にしたんですがね」
「そうですか……」
梶原は、ちょっと目を伏せた。
「どうですか。結局あなたは松井見帆を振って、小田恭子を選んだ。松井見帆があなたを恨んでいる、ということはありませんか」
「それはありません」
と、梶原は即座に言った。
「ほう」
殿永は、ちょっと目を見開いて、「なぜ、そう言い切れるんです?」
梶原は少し迷っていたが、
「それは——絶対に秘密にするという約束だったんですが……。こんな場合です。お話ししましょう」
と、肯いて、言った。「実は、松井見帆さんと僕の間には何も[#「何も」に傍点]なかったんです」
「何も?」
「つまり——総《すべ》て、仕組んだお芝居だったんです」
「へえ」
と、亜由美が目をパチクリさせて、「じゃ、あの恭子さんの気をひくために?」
「まあそうです」
と、梶原は肯いた。「少々情ないと言われそうですが……」
「以前は、恭子さんとお付合いされてたんでしょ?」
「ええ。しかし、僕の方が、少しいい加減な気持でしてね。結婚で縛られるのはいやだ、って気があったもんですから、逃げていたんです。彼女の方も、そういう点、敏感に察したのか、段々遠ざかって……。でも、いざそうなってみると、勝手なもんですが、彼女のことがたまらなく好きになって……。しかし、彼女は信じてくれないんです。それで悩みましてね」
「で、松井さんに?」
「ええ。以前からちょくちょく相談相手になってもらっていたし、それにあの人は絶対に秘密を守ってくれる人ですから」
「で、親しくなったふり[#「ふり」に傍点]をしてくれって、頼んだんですか?」
「ええ。恭子を振り向かせるにはそれが一番いい、って……。松井さんもそう言ってくれたんです」
「でも、松井さんは結局振られ役でしょ? それに社内でも噂《うわさ》になって——。噂にもならないんじゃ困るし」
「その点は僕も気になりました。でも、彼女の方が、そうしろ、とすすめるんです。恭子さんみたいないい子を逃しちゃだめよ、と。——結局、僕は、うまく行ったら三十万円払う、ということで、松井さんにその役を引き受けてもらったんです」
「お金でね……。それも、松井さんが言い出したんですか」
「そうなんです。こっちが気をつかわなくてすむように、と。——本当にあの人には、頭が上りません」
と、梶原は首を振って、言った。「ですから、松井さんがあんなことをする理由はないんです」
そこへ、恭子が戻って来るのが見えた。梶原はあわてて、
「今の話はどうか——」
「もちろん口外しません」
と、殿永は肯いて、「さて、奥さん、どこで食事にしましょうか? お好みは?」
恭子が、ちょっと考えて、
「久しぶりに和食が食べたいんですけど」
と、言った。
「結構! じゃ、腰を上げましょう」
亜由美も立ち上った。
梶原の話はよく分った。しかし、松井見帆にとって、ずいぶん気の毒な役回りではある。
もちろん、表面的には、松井見帆もこの二人を祝福しているだろう。
しかし、心中、複雑なものがあるのは確かではないかしら……。
亜由美は、そう思った。
もちろん、同時に、何を食べようか、と考えてもいたのである……。