「クゥーン……」
オフィスビルの中に犬の声がすることは珍しい。
「あら」
足を止めて振り返った松井見帆は、ちょっと目を見開いて、「この間のワンちゃんね。飼主はどこなの?」
「ここです」
と、亜由美がヒョイと顔を出す。
「あら、いらっしゃい」
と、見帆は微笑《ほほえ》んで、「この寒いのに。——大学は? あ、もうお休みなのね」
「ええ。それでちょっと突然に。すみません、前もって電話もしないで」
「構わないのよ。下の喫茶店でお茶でも、どう? あそこのチーズケーキはなかなかのもんよ」
「いいですね」
と、亜由美は即座に肯《うなず》いて、「でも、お仕事中じゃないんですか?」
「『お仕事中』よ。でもね、これぐらいのベテランになると、少々さぼっても誰も文句を言わないの」
と、見帆はちょっとウインクして見せた。
「このドン・ファンも構いませんか?」
「大丈夫よ、あの店のマスターは動物好きだから。何とかしてくれるわ」
それでは——というわけで、亜由美はドン・ファンと共に、見帆の後について行った。
——確かに、その店のチーズケーキはなかなかのものだった。
「結木君のこと?」
と、見帆は紅茶を飲みながら言った。
「ええ。——傷が回復して、またこちらで働いてる、って聞いたもんで」
「そう。だって、警察でも一応釈放されたんだし、不採用にする理由はないでしょう?」
「でも、よく会社の方で、採《と》ってくれましたね。あの田崎って課長なんか、絶対にいやがりそうなのに」
見帆は、ちょっと笑って、
「お察しの通り、とんでもない、って感じだったわ。でも、私がひとにらみしてやったの!」
と、肯いて見せた。
亜由美は、松井見帆のことが、大いに気に入った! こんな先輩は、めったにいるものではないだろう。
「まあ、当人もね、やっぱり気がねしてるから、今のところ、郵便係をやってるの」
「郵便係?」
「そう。会社の郵便物を出しに行ったり、配ったりする係で、いつもはオフィスじゃなくて、下の発送係にいるから、そんなに会社の人と顔を合わさずにすむしね」
「他の社員の方たちは、どう思ってるんですか?」
と、亜由美は訊いた。
「それがおかしくてね」
と、見帆は楽しげに、「女の子たちに凄《すご》い人気なの」
「人気?」
「だって、恭子さんのことを思い詰めて、自殺まで図ったっていうわけでしょう? 今どき、そんな純情な人、いたの、って、びっくりしてるわね」
「ああ、分りますね」
「もう、すっかりアイドル扱い。午前と午後に二回ずつ郵便を配って回るんだけど、あちこちで女の子たちが、手作りのクッキーを出したり、お昼に食べて、ってサンドイッチを渡してみたり……。配り終って、戻る時の方が荷物が多かったりするの」
亜由美は笑ってしまった。——でも、とてもいい話だ。
「私もホッとしたのよ」
と、見帆が言った。「みんなに白い目で見られたら、本人も辛いでしょうしね。でも、そんな心配は無用だったみたい」
「この間の成田の事件は、結木って子のやったことじゃないんです。犯人はきっと他にいるんです」
「危なかったようね、梶原さん」
と、見帆は真顔になって、「早く犯人が捕まってほしいわ……」
すると、喫茶店の中を覗《のぞ》き込む顔があった。亜由美が気付いて、
「洋子!」
「あ、亜由美。びっくりした。来てたの?」
と、洋子は入って来ると、「松井さん、上で大変なんです」
と、早口に言う。
「何なの?」
「田崎課長が——結木君と」
「田崎さんが?」
見帆がパッと立ち上る。
もちろん亜由美も、そして店の隅でミルクをもらっていたドン・ファンも、立ち上ったのである。
「しら[#「しら」に傍点]を切る気か!」
と、田崎が怒鳴《どな》る。
「知らないものは知りません」
と、結木が顔を真赤にして言い返す。
オフィスの廊下で、二人の視線は火花を散らさんばかりだった。
エレベーターの扉が開いて、見帆や亜由美たちが降りて来た。
「——待って下さい!」
と、見帆が声をかける。「何があったんですの?」
「君か」
と、田崎は唇をひきつらせて笑うと、「君のお気に入りの結木君がね、現金書留の金を盗んだのさ」
「何ですって?」
「嘘《うそ》だ!」
と、結木は言い返した。「僕はそんなことしません」
「田崎さん、何かの間違いじゃないんですか?」
「君は何かね、課長の僕より、このアルバイトの言葉を信じるのか」
と、田崎が切り口上になって、「こいつは警察の厄介になった奴《やつ》だぞ」
「それとこれとは別ですわ。その書留というのは……」
「見ろよ」
田崎が、現金書留の封筒を取り出して、「中には十万円入ってることになっている。ところが配られて来た時には、中は空《から》。はっきりしてるじゃないか。こいつが途中で失敬したのさ」
「まさか」
と、亜由美が言った。「そんな馬鹿なこと、誰がするもんですか」
田崎はムッとした様子で、
「何だ君は! 余計な口出しをするな!」
と、にらみつける。
こうなると、ますます強気に出るのが亜由美の性格。
「そんなことすりゃ、すぐに自分が疑われることぐらい、分り切ってるじゃありませんか」
と、言ってやった。
「利口な奴なら、警察の厄介になるようなことはしないさ」
と、田崎はせせら笑って、「女のために手首を切るなんて奴のすることだ。馬鹿で当然さ」
「何だと!」
と、結木が体を震わせている。
怒って当然。——しかし、何だか妙だな、と亜由美は思った。この田崎の絡《から》み方、普通じゃない。
わざと結木を怒らせようとでもしているみたいだ。——そうか!
田崎は、結木が手を出す[#「手を出す」に傍点]のを待っているのだ。田崎を殴れば、理由はどうあれ、結木はこの会社にいられなくなる。
何てずるい奴! 亜由美は先に田崎をぶん殴ってやろうかと思った。何といっても、亜由美なら、この会社をクビになる心配は(当然のことながら)ない。
「田崎さん、それは言いすぎです」
と、見帆が間に入った。
「君は泥棒の肩をもつのか」
と、田崎は言った。「それとも、その金で、こいつとホテルにでも行くのか」
見帆が青ざめる。結木が拳《こぶし》を固めた。——危い!
田崎が見帆に悪口を浴びせたことで、結木の怒りが頂点に達したのだ。
今にも、結木が殴りかかるかと思った時、
「すみません」
と、声がして、「その書留のことですけど……」
まだ若い、入りたてっていう感じの女の子が立っていた。
「その書留、私が田崎課長に言われて出したんです」
と、その子は言った。
「あなたが?」
「はい。でも、中はどう触ってみても空《から》でした。私、心配になって、田崎さんに『これでいいんですか』って訊《き》いたんです。課長さん、『黙って出してくりゃいいんだ』って……。でも、どうしてこの会社[#「この会社」に傍点]あてに出すんだろうって、不思議だったんです」
思いもかけない伏兵の出現で、田崎の方は立場がなくなってしまった。
「——田崎さん」
と、見帆が冷ややかに言った。「結木君を辞めさせるためにしても、やり方がひどすぎませんか」
「うるさい!」
と、田崎は声を震わせた。「こんな奴を置いとくのは、会社のためにならないんだ。俺《おれ》は会社のためにやったんだ!」
冷ややかな沈黙が、田崎を囲んだ。——苛立《いらだ》った田崎は、突然拳を固めると、
「こいつ!」
と、結木に殴りかかろうとした。
その時、ドン・ファンがタタッと床を走って、パッと宙へ飛んだ。
「ワアッ!」
いきなり、茶色の胴体が目の前に飛んで来りゃ、誰でもびっくりする。田崎は、みごとに引っくり返って、したたか腰を打ち、しばし、立ち上れなかった……。
「——さ、結木君、もう行って」
と、見帆は促《うなが》した。
「すみません」
結木は一礼して立ち去る。
田崎が、顔をしかめつつ、やっとこ立ち上った。
「——今に後悔するぞ!」
と、見帆に向って怒鳴り、書留の件をばらした女の子へ、「貴様はクビだ!」
と、大声でわめいた。
その子はムッとした様子で、
「言われなくたって、こっちの方から願い下げよ。イーだ」
と舌を出した。
田崎は真赤になって、腰をさすりながら、行ってしまった。
「みっともない奴」
と、亜由美は言った。「ドン・ファン、よくやった」
「ワン」
「でも……」
見帆の声は、穏やかになっていた。「可哀そうな人」
その呟《つぶや》きは、亜由美をハッとさせるほど、寂しげな響《ひび》きを持っていた。
誰も彼も……。
足がもつれて、田崎はフラッとよろけた。
「フン!——畜生め」
誰も彼も、俺を馬鹿にしてやがる!
酔ってはいたが、胸の中は一向に燃え立たず、苦いものばかりが渦を巻いていた。
俺は課長だぞ。それなのに、部下の奴らまでが、俺のことをせせら笑っていやがる。
松井見帆の奴まで……。
あいつは——あいつだけは、俺のことを分ってくれていると思っていたのに。
結木みたいな奴の味方になりやがって! 俺に抱かれて、いい気持になっていやがったくせに!
俺は……俺は、何者なんだ?
家へ帰りゃ、女房は冷たい目で俺を見下すし、娘も口をきかない。
「酔っ払いは嫌い」
だと?
ふざけやがって!——どうして俺が酔ってると思うんだ!
何も好きで……好きで酔ったんじゃない、初めは。
しかし——昔は良かった。
そうだ。女房も、ハネムーンのころにゃ、可愛《かわい》かった。俺に頼って、いつも心細そうにしてたもんだ。
俺は……娘のことだって、ずいぶん可愛がったんだ。あいつも、小さいころはいつも俺を追い回して……。出張に出るって言うと、泣いたもんだ。
あのころは——そうさ、可愛かった。
みんな、そんな昔のことは憶えていやしない。良かったころのことは、忘れてしまうんだ……。
——もうすぐ家か。
どうせ女房は先に寝てて、起きても来ないさ。いつ亭主が帰ったかも、知るまい。
あいつのベッドに入って行っても、冷たく拒《こば》まれるだけで……。
おっと。——何だ、気を付けろ。
田崎は、暗がりの中で、誰かに突き当られて、よろけた。
フン、酔っ払いめ。
そうか。——俺も酔っ払いか。
田崎は声を上げて笑った。痛みが、腹に走った。——何だろう?
どうしてこんなに痛いんだ? おい……。
歩けなくなった。
田崎は、膝《ひざ》をつき、片手をついて、辛うじて冷たい路面に転がらずにすんだ。しかし、もう一方の手で、痛い所を押えた田崎は、手がべっとりと濡《ぬ》れるのを感じた。
血か[#「血か」に傍点]? これは——血なのか?
俺の血が、なぜ……。
誰かが、俺を刺したんだ!
やめてくれ! 何てことだ……。
早く覚めてくれよ、こんな夢は。こんなひどい夢があるかい。
俺が一体何をしたって……言うんだ?
田崎は、路面に突っ伏した。アスファルトの冷たさも、やがて感じなくなる。
——田崎の意識は、プツンと切れるように絶えた。
珍しく、妻が彼の帰りを待っていたことも、知らなかった……。