「何てことだ……」
と、殿永は首を振った。「まさか、こんなことが……」
——冷え冷えとした、冬の朝。
亜由美は、ゆうべ遅かったのだが、殿永からの電話で飛んで来た。どんなに眠かったとしても、この冷気と、通りにうずくまっている田崎の死体を目の前にしたら、眠気など吹っ飛んでしまったろう。
「どうしてこの人が……?」
と、亜由美は呟《つぶや》いた。
「見て下さい」
と、殿永は指さした。
死体のすぐそばに投げ出すように置かれていたのは、あの紙細工の花嫁の人形だった。
「この人が……」
「一体どういうことなんですかね」
と、殿永は、ため息をついた。
「あの——昨日、会社でこんなことが……」
と、亜由美は昨日の事件を話してやった。
「なるほど、すると、また結木健児か」
「でも、こんなことまで……」
「もちろん、私もそう思いますがね。一応調べてみなくては」
「そうですね」
と、亜由美は肯《うなず》いて、ちょっと身震いした。「——あの人は?」
「奥さんですよ」
と、殿永が言った。「帰りが遅いので、待っている内に、ウトウトして、朝になってしまったんです。それで、もしかしてどこかで酔って倒れているかと、心配して出て来て、発見したんです」
「そうですか……」
呆然《ぼうぜん》として、寒さも感じない様子のその女性の方を、亜由美は眺めた。
「刺し殺されている。——全く、こんな展開になるとはね」
と、殿永は、何度も苦々しい思いをかみしめているようだ。
タクシーが一台、近くまでやって来て、停《とま》った。
「あら——」
と、亜由美が目を見開いた。
松井見帆が降りて来たのだ。急いで駆けて来ると、
「これは……田崎さん?」
と、かすれた声で訊《き》いた。
「ええ」
「何てひどい——」
と、見帆は絶句した。
「松井さん、どうしてこのことを?」
と、殿永が訊いた。
「電話が……」
「電話?」
「低い声で——。『あんたの恨みは晴らしたよ』って……。『あの課長は二度とあんたを苦しめない』と言いました」
見帆は、体を震わせた。「心配になって、田崎さんのお宅へ電話したんですけど……。どなたも出られなくて。それで、飛んで来たんです」
「——松井さん、ですね」
と、近寄って来たのは、田崎の夫人だった。
「はい……。奥様でいらっしゃいますね」
「ゆうべ、主人のことで、お電話を」
と、夫人は言った。「おっしゃる通りに、起きて待っていました」
「こんなことになって……」
と、見帆は顔を伏せた。「私、奥様には本当に申し訳のないことを——」
「いいえ」
と、夫人は遮《さえぎ》って、「主人に誰か女の人がいたのは知っていました」
亜由美は唖然《あぜん》とした。——田崎と、松井見帆が?
「でも、あなたのような方で良かった」
と、夫人は言った。「私も悪かったんです……」
見帆が、涙を拭《ぬぐ》った。
「娘を、お隣の方に預けておりますので」
と、夫人が言って、歩いて行く。
——殿永が、顎《あご》をなでながら、ゆっくりと息をつく。その息が白く、風に震えて流れて行った……。
「すると、あの紙細工の人形が、あなたの所へも?」
と、殿永が言った。
「黙っていて、申し訳ありませんでした」
と、見帆は顔を伏せた。「ただ、そのことは忘れかけていました。まさかこんなことになるなんて」
「——大変でしたねえ、まあ」
と、亜由美の母が、お茶を出す。「どんな人でも、殺されていい、ってもんじゃありませんから」
「全くです」
と、殿永が肯く。
——田崎の殺された現場から、亜由美の家へやって来ていた。
ドン・ファンは居間の隅に引っくり返って寝ている。
「梶原さんのことも、誰にも言わない約束になっていましたし……」
と、美帆は言った。「でも、誰なんでしょう?」
「すると、どうもこういうことのようですね」
と、殿永が、熱いお茶を一口飲んで、ホッと息をつくと、「初めの、梶原さんへの手紙にあった、〈女の恨みの深さ……〉というのは、梶原さんが松井さんを振ったことを指しているようですね」
「そうですね」
と、見帆が肯く。「犯人は私が本当に梶原さんに捨てられたと思って……。私に同情しているんでしょうか」
「しかし、同情だけで人までは殺しませんよね、普通なら」
と、亜由美は言った。「きっと、松井さんのことを思っている人なんだわ」
「何てことかしら……」
と、見帆はため息をついた。
「いや、あなたのせいではありませんよ。——田崎さんを殺したのは、梶原さんの件とは関係ない。やはり、昨日の会社での出来事のせいでしょうね」
「つまり、犯人は梶原さんが憎いというよりも、松井さんにひどいことをした人間が憎い、ってわけですね」
と、亜由美が言うと、見帆の方はますます落ち込んでしまった……。
すると、電話が鳴って、母の清美が出た。
「——はい、塚川でございます。——は? 亜由美は今、出張しておりますが……」
亜由美は、ため息をついて、
「私はいるわよ、お母さん」
と、言った。
「あ、そうだったわね。お父さんと間違えちゃって。——ちょっとお待ち下さい」
夫と娘を間違えるという、珍しい人なのである。
「——はい、亜由美です」
「あの……結木です」
「あら」
と、亜由美はびっくりして、「どうしたの?」
「そこに、松井さんは行っていませんか?」
「松井さん? ええ、いるわよ。じゃ、代るわね」
と、亜由美は言った。「——結木さんからです」
「ありがとう」
と、見帆は受話器を受け取った。「もしもし……」
殿永が立って来て、そばで受話器に耳を寄せる。
「松井さん」
「結木君。——田崎さんが殺されたのよ」
「知っています」
と、結木が言った。
「知ってるって……。どうして知ってるの? まさか、結木君が——」
「直接会って、話したいんです」
「結木君……」
「松井さん一人で、来てもらえますか」
そばで話を聞いていた殿永と亜由美が、チラッと目を見交わした。
「——いいわ」
と、見帆が言った。「一人で行くわ。どこに行けばいいの?」
「会社の倉庫を知ってますか」
「倉庫? もちろん知ってるわ」
「僕はついこの間まで、あんなものがあるなんて知りませんでした」
「そうでしょうね。私は何か月かあの中で働いたことがあるのよ」
と、見帆は言った。「夏の暑い時でね、中にいると、じっとしていても汗びっしょりだった。昔のことだけど」
「そうですか」
結木の声が和《なご》んだ。「じゃ——今日の夜十時に」
「十時ね、分ったわ」
「それと、今日は休みますから、そう伝えて下さい」
と、結木は律儀に付け加えて、電話を切った。
「——どうします?」
と、亜由美は言った。
「一人で行くのは危険ですよ」
と、殿永が言った。「もし結木が犯人だとしたら、あなたを道連れに、無理心中を図る心配があります」
「でも、一人で行きます」
と、見帆は、きっぱりと言った。「約束ですから」
「せめて私が付いて——」
と、亜由美が言いかけたが、
「いいえ。お気持はありがたいんですけどね、私も、結木君に対しては責任がありますから」
見帆はそう言って、微笑《ほほえ》んだ。「何があっても、私の責任です。ご心配なく」
「そうおっしゃられてもねえ……。全く、どうして私の担当する事件の関係者は頑固な人が多いんだろう」
と、殿永がぼやいた。
「ワン」
と、ドン・ファンが、いつの間に目を覚ましたのか、殿永に同情するように(?)一声|吠《ほ》えたのだった……。
「雪でも降りそう」
と、亜由美は車を出て、身震いした。
夜になって、空は分厚く灰色の雲に覆われた。
底冷えのする夜で、風がないのがいくらかは救いだった。
「——あの黒く見えるのが、倉庫です」
と、松井見帆は言った。「じゃ、ここからは一人で行きますから」
「マイクのスイッチは入れておいて下さいね」
と、殿永は言った。「何かあれば、すぐに駆けつけますから」
「分りました。——これでいいんですね」
えりにつけた、一見ブローチのような小型のマイクが、見帆の声を拾って、殿永の車の無線に入る。
「じゃ、もう十時ですから」
と、見帆は足早に、倉庫の方へと歩いて行った……。
「——では、我々は車の中で聞いていることにしましょう」
と、殿永は亜由美を促《うなが》した。
車に入ると、殿永は、手をこすり合わせた。
「いや、この年齢《とし》になると、寒さは応《こた》えますよ」
「同感です」
「クゥーン……」
亜由美とドン・ファンは異口同音に(?)言った……。
——倉庫の戸が開く、重苦しい音が聞こえた。
そして、見帆の足音が、広い空間に反響して聞こえる。
「——結木君」
と、見帆が呼ぶ。「どこなの?——私、一人よ」
少し間があって、足音が止った。
「結木君! そんな所にいたの」
と、見帆が息をつく。「約束通り、一人きりよ。下りてらっしゃい」
「いや、ここでいいです」
と、結木の声がした。
少し遠い。どこか高い所にいる様子だ。
「本当に一人なんですね」
と、結木は言った。
「もちろんよ。約束じゃないの」
「約束か……。約束を守らない人間が、いくらもいます」
「本当ね、世の中には沢山いるわ」
と、見帆は静かに言って、「結木君。梶原さんに、あんな手紙を出したのは、あなたなの?」
「そうです」
「私に電話をかけて来たのも?」
「ええ」
——無線で、二人のやりとりを聞いていた亜由美はふと、
「どうして、結木君は、うちの電話番号を知ってたんだろう?」
と呟《つぶや》いた……。
「どうして結木君——」
「あなたが好きだったからです」
「でも、あなたは恭子さんを——」
「違います」
と、結木は遮った。「あの時、あなたを目の前にして、本当のことは言えなかったんです。ですから、恭子さんが好きだ、と言ってしまったんです」
「そう……。あなたはとてもいい人だわ。でも、なぜあんなことを……」
「あなたを侮辱する奴は許せないんです」
「だけどね——」
「今は後悔しています」
と、結木は言った。
「本当に?」
「ええ。でも、もう田崎課長は生き返りません」
「結木君、一緒に警察へ行きましょう。あなたはまだ若いわ。充分やり直せるわ」
「いいえ、もういいんです」
「もういい、って……」
「やったことの償いはします。ただ——会って、直接、あなたのことが好きだった、と言いたかったんです」
「結木君。——何してるの? やめて!」
見帆が叫ぶように言った。
殿永が、車のエンジンを入れ、アクセルを踏んだ。車は倉庫に向って突っ走る。
「そんなこと、やめて! 結木君!」
見帆の叫び声。
亜由美たちは、車から飛び出して、倉庫の中に駆け込んで行った。
高い天井のはり[#「はり」に傍点]から、長いロープが下り、そこにぶら下った結木の体が、大きく揺れていた。
「首を吊《つ》って……」
と、見帆が声を震わせた。「あの高い張り出しにいたので……止められませんでした」
「手遅れでしょうな」
と、殿永は首を振った。「ともかく、下ろしましょう。——塚川さん、すみませんが、手伝って下さい」
「はい!」
亜由美は急いで殿永について行った。
はりにかけたロープが、キュッ、キュッ、と、揺れる度にきしんでいた。