「やれやれ……」
板谷は、流れ落ちる汗を拭《ぬぐ》って、息をついた。
春とはいっても、陽射しはもう暑いくらい。特に、板谷は工事用のヘルメットをかぶっているので、ますます暑いのである。
「おーい、気をつけろよ」
と、声が飛ぶ。
板谷は手を振って、
「退《さ》がって!——壁を壊すぞ」
と、怒鳴った。
崩れた壁やタイルが山になっている上を、板谷は、うまくバランスを取りながら歩いて行った。何といってもプロなのだ。
板谷は、いわゆる「壊し屋」である。
家やビルを建て直す時、それを壊すのが仕事。——もちろん、建てるのも大変だが、壊すのは別の意味で難しい。
何でも、ただ壊せばいいというものではないのである。
特に、今のように住宅が密集して、隣家との間に、空地や庭がない場合、取り壊す際の騒音と、土埃《つちぼこり》は、苦情の種になる。
いかに静かに、埃をたてず、すみやかに取り壊すか。そこに、板谷のような「壊し屋」の腕の見せどころがある。
「——主任」
と、若い作業員の大竹が、走って来る、「あと、一部屋分だけですけど、昼前にやっちまいますか?」
「そうだな」
板谷は、腕時計を見た。——十二時まで、あと五分。
この現場は、学校の古い校舎を壊す作業で、普通の家に比べると、校庭や塀がある分、音や埃に気をつかわなくてもすむのだが、そこはやはり地元の住人との事前協定があって、十二時から一時の間は作業を休むこと、という一項が入っているのだ。
あと一か所。——気持の上からは、片付けて、のんびり休みたい。
しかし、世の中には、こんな時、必ず時計とにらめっこしていて、一分でも作業時間がオーバーすると、
「協定に反している!」
と、抗議して来る手合がいるものだ。
板谷たちは、壊してしまえば、それきりだから、少々もめても構わないが、後に新校舎を建てる連中に、とばっちりが行くとまずい。
「焦《あせ》ることはない。昼休みの後にやろう、もう休んでいい」
「分りました」
大竹は、他の作業員の方へ、「おーい! 昼休み、昼休み!」
と、手を振って見せた。
ブルドーザーや、トラックの動きが一斉に止まると、急に、辺りが静まり返る。板谷はヘルメットを外して、頭をかいた。汗が流れて来る。
「——板谷さん、弁当ですか」
と、大竹がやって来る。
大竹は二十四歳の若い社員。ちょうど板谷の半分の年齢。ということは、板谷が四十八ということである。
「ああ。——お前もか?」
「買って来たんですよ、近くで。作ってくれる優しい女《ひと》はいないんで」
「じゃ、その辺で食おう」
板谷は、大竹の肩を、ポンと叩《たた》いて、言った……。
「——不思議な縁だな」
と、板谷は妻の作ってくれた弁当を食べながら、言った。
「え?」
「この学校さ。——前に来たことがあるんだよ」
「通ってたんですか?」
と、訊《き》いてから、大竹は、「ああ、ここ、女学校でしたよね」
「俺《おれ》が、昔刑事だったこと、話しただろう?」
「ええ、もう十年くらい前でしょ」
「十一年になるな、刑事を辞めてから。——もう十五年くらい前になるだろう、ここで事件があったのは」
「この女学校で? 何かあったんですか」
大竹は、興味|津々《しんしん》という様子で言った。
「うん……。ここの女教師が行方不明になったんだ」
「行方不明? 誘拐《ゆうかい》とか、殺人とか?」
「自分で姿を消す理由は全くなかった」
と、板谷は思い出しながら言った。「確か……そうだ、憶えてるぞ。名前は風間涼子だ。まあ、写真でしか知らんが、美人で、優しく、生徒たちからも好かれていた。二十六歳だったよ、確か」
「いい年齢ですね」
「風間涼子は、ある会社の社長の息子と結婚することになっていたんだ。人柄を見込まれちまったんだな」
「へえ、そりゃ凄《すご》い」
「しかし、彼女は条件をつけた。結婚しても、子供ができても、教師を辞めない、というんだ。これには相手も困ったらしいが、その社長の父親が、却《かえ》って、彼女のそんなところを気に入ってしまった」
「じゃ、彼女の条件通りで?」
「そうだ。——まあ、順当にいけば、風間涼子は、世界一幸福な花嫁ってことになるはずだった……」
「ところが、ってわけですね」
「おい、食べろよ、そう夢中にならないで」
と、板谷は苦笑した。
「だって、板谷さんの話が面白いから……。それで、どうなったんです?」
と、大竹は、弁当をパクつきながら、訊いた。
「式の前日、彼女はまだこの学校へ来て、働いていた。何しろ仕事熱心だったんだ。校長が『もう帰ったら』と声をかけたんだが、『あと少しですから』と答えて、一人で職員室に残っていた」
「それで?」
「それが、風間涼子の姿が見られた、最後だった。——彼女はその夜、家へ帰らなかった。風間涼子は一人でアパート住いだったが、式を控えて、地方から両親が出て来ていたんだ」
「じゃ、大騒ぎでしたね」
「夜中過ぎても帰らず、警察に届が出た。——式はくりのべされて、捜索が始まった。しかし、どこへ行ったのか、ついに風間涼子の姿はどこにも見当らなかったんだよ」
大竹は肯《うなず》いて、
「よく分りますけど……。でも、人は見かけによらないとも言いますよ」
「うん。俺《おれ》もそれは考えた。しかし、いくら当ってみても、風間涼子に他の男のかげ[#「かげ」に傍点]はなかったし、二重人格ってこともないようだった。ただ——」
「何か?」
「殺しかもしれない、と思わせたのは、風間涼子の机の近くの床に、血痕《けつこん》が見付かったからだ。しかし、それだって、よく生徒が鼻血を出したりすると、連れて来て休ませてやったりしていたというし……。果してそれが、風間涼子の血かどうか、判定できなかったんだよ」
大竹は、もう弁当を食べ終えていた。
「可哀そうに。いや、もし何か悲運な目にあったのなら、ですがね」
「結局、半年近く捜査を続けたが、何の収穫もなしに、打ち切らざるを得なかった。風間涼子の両親は、落胆したまま東京を離れて、間もなく亡くなったと聞いたな」
「そうですか……。例の、結婚相手の男はどうしたんです?」
「いや、なかなかいい男でね。彼女は生きてるかもしれない、と言って、二年間も待っていた。——もちろん今は他の女性と一緒になって、十年以上もたつわけだが……」
板谷は、ふと遠くを見る目つきになって、
「どうしてるかな、あの男」
と、独り言のように言った……。
——午後の一時になって、再び作業が始まった。
「おい、あれが、最後の壁だ。きれいにやれよ」
と、板谷はブルドーザーを運転している部下へ声をかけた。
「一発ですよ、あんなの」
ブルドーザーが、最後に一枚、忘れられたように立っている壁に向って、ゴトゴトと進んで行く。
「——主任」
と、大竹が言った。
「何だ?」
「あの壁、ずいぶん厚さがありますね」
「厚さが?」
「ええ。七、八十センチも。中に戸棚でも作るつもりだったのかな」
「そうかもしれないな」
二人は、歩いて行って、ブルドーザーの力に負けて崩れ始めた壁を眺めていた。
「——中が空《あ》いてる」
と、大竹が言った。「変ってますね、こいつは」
「ああ。何だろう?」
と、板谷は言った。
壁が、まるで熱湯をかけた白砂糖みたいに崩れて行く。——そして……。
「おい、待て!」
と、板谷が叫んだ。「止めろ! 止めるんだ!」
「主任——」
大竹が呆気《あつけ》に取られているのを尻目に、板谷は、その壁へと駆けて行った。
「ブルドーザーを退《さ》げろ!」
ブルドーザーが後退し、板谷は、壁の間の空間を、覗《のぞ》き込んだ。
「どうしました?」
と、大竹がやって来る。
「何てことだ……」
板谷は、愕然《がくぜん》として、突っ立っていた。
覗いた大竹は、
「ワッ!」
と、声を上げた。「こ、これは……」
壁の間の、五十センチほどの隙間《すきま》に、白骨が——完全な人間の白骨があった。
しかも、ボロボロになってはいるが、その白骨がまとっているのは、ウェディングドレスに違いなかったのである。
「何です、これ?」
大竹は、膝《ひざ》がガクガク震《ふる》えていた。
「間違いない」
と、板谷が言った。
「え?」
「風間涼子だ。——こんな所に、閉じこめられていたんだ……」
板谷の言葉が聞こえたかのように、その白骨は、ゆっくりと崩れるように倒れたのだった……。