「ねえ、読んだ?」
「ワン」
「お前に訊いてるんじゃないでしょ!」
と、塚川亜由美は、ダックスフントのドン・ファンに言った。
しかし、ドン・ファンの方は納得《なつとく》せず、
「ワン」
と、もう一声、抗議[#「抗議」に傍点]したのだった。
「言ったってむだよ」
と、亜由美と同じ大学に通う親友の神田聡子が、笑いながら言った。「その犬、自分のことを、犬だなんて思ってやしないんだから」
まあ、ドン・ファンの方にも言い分はあったかもしれない。
塚川家の二階、亜由美の部屋で、引っくり返って寝そべっている二人と一匹。——どれが人で、どれが犬やら、少なくとも、その態度からは、判断がつけにくいのだから。
もちろん、いつもいつも、この二人が、暇を持て余しているわけではない。
ただ——まあ、他の子がデートにいそいそと出かけている時に、決った彼氏とていないこの二人が、時間を持て余していることは、どうしても否定できなかった……。
「何のこと、亜由美?」
「この記事!——ウェディングドレスをまとった白骨ってやつよ」
「ああ、知ってる! 亜由美が喜びそうだなあと思ったの」
「何で私が?」
「だって、そういう話、好きでしょ?」
「嫌いとは言わない」
「ほら見なさい」
「だけど……。十五年も前じゃ、人殺しとしても、もう時効だね」
いつも殺人事件に首を突っ込んだりしているので、ついそういう点に頭が行く。
「でも、歯医者の鑑定でも、はっきりしなかったって。この人、虫歯なかったのかしら」
「かなわないね、そういうのって」
と、聡子が言った。
「何が?」
「だって、週刊誌とか読んでると、『誰からも好かれた、すばらしい人』で、『理想に燃えた教師』で、『清楚《せいそ》な美人』でしょ。加えて、虫歯の一つもないなんて! 人間じゃないよ!」
亜由美も、なるほどと思った。
世の中には、本当に[#「本当に」に傍点]、善意と努力の人、という人間がいないではない。しかし、そういう人とは、付合っていても、息苦しくなるのは事実だろう。
それに、いずれにしても、この白骨が、風間涼子という女教師のものであるのは、間違いないらしいから、彼女が、殺されて壁の中へ塗り込められたのだとすれば、誰か一人[#「一人」に傍点]は、彼女を憎んでいた人間がいることになる。
「でも、今さら、十五年前の出来事、ほじくり返されたら、困る人もいるだろうね」
と、聡子が言った。
「そうねえ。もうそんな関係者は、めいめいの人生を歩んでいるわけだし……」
十五年前といえば、亜由美など、まだ小学校にも上っていない。遠い昔のこと(?)である。
「でも、まあ、当分は週刊誌とかが、騒ぐでしょうね」
と、亜由美は言って、アーアと伸びをした。
それぞれの「人生」に思いをはせているにしては、いささかしまりのない態度で引っくり返っていると——。
「亜由美」
と、ドアが開いて、母親の清美が、顔を出した。
「お母さん、黙ってドアを開けないでよ」
と、亜由美はむだと知りつつ、いつもの苦情をくり返した。
「ごめんなさい。でも、そろそろ出かけた方がいいんじゃないかと思って」
と、清美は言った。
「私が一体どこに行くのよ?」
「お前、言ってなかったっけ? 今日は家庭教師に行く日だって」
亜由美は、ポカンとして、しばし母親を眺めていたが、やがて、ポンと飛び上って、
「お母さん!」
「何よ、私の勘違いだった?」
「忘れてたじゃないの! どうしてもっと早く言ってくれないのよ!」
亜由美は机の引出しをあけて、「ええと……問題集、問題集……」
聡子は呆《あき》れて、
「亜由美、いつから家庭教師なんかやってんの?」
「まだ今日で二回目! だから、うっかりしてたのよ。——ええと、後は、このノートと……」
「誰を教えてるの?」
「小学校の六年生の女の子。中学の受験なのよ。来年!」
「ハハ」
と、聡子は笑って言った。「そりゃ絶望的だ」
「何言ってんの! じゃ行って来る! 聡子、どうせ暇でしょ」
「引っかかるわねえ」
「留守番しててね、帰ったら、晩ご飯、一緒に食べよ」
と言って、亜由美は、ドタドタと階段を下りて行った。
「あれじゃあね」
と、聡子はドン・ファンに話しかけた。「亜由美も当分、色恋とは無縁ね。そう思うでしょ?」
「クゥーン」
ドン・ファンは、鼻を鳴らすと、聡子の方へすり寄って来た。
「こいつ! 主人がいなくなると、すぐ浮気するんだから! この不倫犬[#「不倫犬」に傍点]め!」
と、聡子は叱《しか》って(?)やったのだった……。
「——やれやれ、参った、参った」
と、息を弾ませながら、亜由美は呟《つぶや》いていた。
バスを降りて、目指す家へと急ぐ。しかし、もう約束の時間に二十分も遅れてしまっていた。
途中で、何か口実をつけて電話してやろうかとも思ったが、先週、第一回目に来た時には、道に迷って二十五分遅れ、先方の母親に、いやな目で見られていたので、今度も何の口実にせよ、遅れるというのは、うまくなかった。
「二回でクビかな」
と、思いつつ、角を曲って、やっとその屋敷が——。
津田家は、この閑静な住宅地でも、目立って大きな屋敷の一つである。
高い塀に囲まれた、木々の緑に恵まれたその家は、なかなか趣のある和風の造りだった。
この広い家に、まあお手伝いさんはいるといっても、親子三人で住んでいるのはもったいない、と亜由美は思ったものだ。
しかし——今日、角を曲った亜由美は呆気《あつけ》に取られてしまった。
津田家の門の前に、車が何台も停《とま》って、カメラマンだの記者だのが、何十人もワイワイ集まっているのである。
何事だろう?——亜由美は目をパチクリさせて、その光景を眺めていた。
まさか、「よく遅刻する家庭教師を槍玉《やりだま》にあげてやろう」というので、マスコミが集まって……いるわけがない。
津田家の主人は何をしている人間か、亜由美はよく知らなかった。
政治家で、汚職でもしたのかしらね。もしそうなら、早く調べとくんだった!
呑気《のんき》なことを考えていると、
「先生。——先生」
と、誰かが呼んでいる。
先生?——どこに先生がいるの?
キョロキョロ見回すと……、
「あ、恵子ちゃん」
と、亜由美は言った。
自分の教えている子が、ランドセルをしょったまま、電柱のかげから、呼んでいるのだ。
「先生……。どうしよう?」
と、津田恵子は言った。「さっき帰って来たけど、中へ入れないの」
小柄ながら、しっかりした子で、また目立って可愛い。頭も良くて、亜由美なんか、何も高い月謝払って、こんなひどい家庭教師なぞ(自分のことである)つけることないのに、と思ってしまう。
「どうしたの、一体?」
と、亜由美は訊《き》いた。「あなたの家に、石油でも出たの?」
「そんなんじゃない」
「分ってるわ、ジョークよ。何なの?」
「先生……知りません? ウェディングドレス着て見付かった、十五年前に消えた女の先生のこと」
「ああ、知ってるわよ、もちろん。週刊誌とかで騒いでるじゃない」
「あの、見付かった女の人と結婚するはずだったの、うちのお父さん」
と、恵子は言った。
「本当?」
亜由美は目を丸くした。
「だから、週刊誌とかTVの人が……。私、行ったら、色んなこと、訊かれそうで」
確かに、恵子の心配は正しいだろう。
「分った。——任せといて」
と、亜由美は言った。「いい? 先生がね——」
——門の前に集まったカメラマンや記者たちは、誰かがチラッとでも姿を見せると、
「ご主人の感想を一言!」
「何かコメント!」
と、口々に怒鳴っていた。
しかし、いくら何でも門の中には入れない。
「しょうがねえな。夜明しするか」
などと言い出すのもいた。
「——皆さん!」
突然、記者たちの背後で高らかな声が聞こえて、みんながびっくりして振り向いた。
もちろん亜由美である。
「皆さん! こっちを向いて下さい!」
と、甲高《かんだか》い声で呼びかける。
退屈していたところへ、何だか変なのが現われたというので、みんなが亜由美の方を見る。
「あんた、何だい?」
「私は——風間涼子です」
と、亜由美は言った。
「そんなタレント、いたか?」
「馬鹿、例の白骨で見付かった女じゃないか」
「あ、そうか。——じゃ、あんたは?」
「私は風間涼子です」
と、亜由美はくり返した。「この娘さんの肉体を借りて、私は皆さんに語りかけているのです」
「神がかりだぜ」
「お黙り!」
と、亜由美は目をカッと見開いて、「神の声を馬鹿にする者は地獄へ落ちるであろう!」
亜由美の迫力に、記者たちはたじたじである。
「よく聞け!——私の魂は、毎夜、真夜中になると、人の姿を借りて現われる。私の死の真相を知りたい者あれば、真夜中、あの学校へやって来るがいい……」
亜由美は、我ながら、芝居っ気があるのでびっくりしていた。
記者もカメラマンも、呆気に取られて、亜由美を眺めている。
その間に、津田恵子がそっと門のわきの通用口の鍵《かぎ》をあけた……。
恵子が中へ入って一旦《いつたん》戸を閉めるのを見た亜由美は、
「そこをどけ!」
と、記者たちを左右へ割って、「私はこの家に用があるのだ!」
「入れないよ」
「見ているがいい……」
亜由美は、通用口の前に立って、「さあ、私のために、戸よ開け!」
スーッと戸が中から開いたので、みんなが目を丸くした。
「ではさらば……」
と、亜由美は記者たちに会釈《えしやく》して、スイッと中へ入り、戸を閉めてしまった。
「——何だ、あれ?」
「さあ……」
誰もが、顔を見合わせ、首をかしげていたのだった……。