「ごちそうさまでした」
と、頭を下げて、亜由美は津田家の門を出た。
「——ああ苦しい!」
食べ過ぎてしまった。ともかく、味といい、量といい……。
「金持だ!」
と、亜由美は呟《つぶや》いた。
本当は、帰りも、
「運転手に車で送らせましょう」
と、津田誠一が言ったのだが、それこそ、ロールスロイスで家の前に乗りつけたりしたら、聡子に何と言われるか。
ドン・ファンだって、かみついて来かねないのである。
それに、このお腹の苦しさは、少し歩きでもしなきゃ、とても解消しそうになかった。
「あーあ」
と、亜由美が、思い切り伸びをすると——。
「今晩は」
と、声がして、亜由美は、
「キャアッ!」
と、飛び上ってしまった。
そこには吸血鬼ドラキュラが——いたりするわけがない。
「いや、すみません。びっくりさせるつもりじゃなかったんですよ」
と、その男は笑いながら言った。
「あれ?」
亜由美は目を丸くした。「殿永さん!」
いつも、亜由美がお世話になっている(といっても、捕まってるわけじゃないが)、殿永刑事である。気のいい、しかし凄腕《すごうで》の刑事だ。
「何してるんですか、こんな所で?」
と、亜由美は訊《き》いた。
「私も、そう訊こうと思ってたんですよ」
と、殿永は楽しげに、「どうも、我々は縁がありますね」
「本当。——もしかして、殿永さん、例の白骨死体のことで?」
「ほらほら」
と、殿永は、冷やかすように、「その目の輝くところ。危ないな、どうも」
「こんなにおとなしい娘をつかまえて、危ないなんて」
「いや、冗談です。——どうです、お茶でも?」
「ええ、もちろん。ただ——」
「何です? 食事でもおごりますよ。定食くらいなら」
「結構です!」
さすがの亜由美も、あわてて言った。「帰りに家まで送ってくれません?」
「はあ?」
殿永はびっくりして亜由美を見つめた……。
「——なるほど」
と、殿永はコーヒーのカップを持ち上げながら、「家庭教師ですか、塚川さんが」
「何かご不満?」
「いやとんでもない。しかし家庭教師をやっていても、ちゃんと事件に巻き込まれてしまうんですな」
喫茶店は静かで、空いていた。
「でも、殿永さん、どうしてあの事件のことを? 十五年前に、担当してらしたんですか?」
「だとドラマチックですがね。——いや、実はあの事件を担当していた板谷という男がいましてね。今、彼は父親の仕事を継いで、『壊し屋』なんです」
「殺し屋[#「殺し屋」に傍点]?」
「まさか! ビルの解体業者ですよ」
「ああ。びっくりした!」
「板谷は、あの事件で、必死に風間涼子を捜したんです。しかし、ついに発見できなかった。ところが——」
と、殿永は一息入れて、「あの校舎を壊して、あの白骨を見付けたのが、何と板谷自身だったんです」
「へえ! 運命ですね」
「面白いでしょう? しかし、板谷は、ただの偶然以上の何かを感じたようです」
「というと?」
「つまり、あの死体は、彼に発見されるのを待っていた、と……。犯人を捕まえてくれと訴えかけているんだ、というわけです」
「なるほどね」
亜由美にも、その板谷の気持は分るような気がした。
「しかし、板谷はもう刑事ではない。そこで古いなじみの私の所へやって来た、というわけです」
「じゃ、殿永さん、この事件の調査にのり出すんですね?」
「そう迫って来ないで下さい」
「前へ出てるだけです」
「ご承知の通り、十五年もたっていますからね。今さら……。しかし、風間涼子が姿を消した日から数えると、十五年目まで、あと半月ほどあるんですよ」
「じゃあ……」
「もし犯人がいるとしたら、きっと焦《あせ》っているでしょうね。あと半月の間に、犯人と立証され、逮捕される可能性もあるんですから」
「やりがい、あるじゃないですか!」
「そう飛びはねないで下さい。——しかし、容易なことじゃありませんよ。もう当時の関係者だって、どこにいるか分らない者もいる」
「でも——少なくとも津田恵一と、その父親はいます。それに、恵一の妻の郁江」
「ええ、それは分ってます」
「実は、今日、娘の恵子ちゃんから、聞いたんです」
亜由美は、郁江が、夫に女ができた時、決死の覚悟で迫った、という話を殿永に聞かせた。
もちろん、相手が殿永だから、話したのである。恵子の打ちあけ話を、勝手に人にしゃべるわけにはいかないが、殿永は特別な存在だ。
「——なるほど、それは意味深長なエピソードですな」
と、殿永は肯いた。「もちろん、郁江に、風間涼子を殺す動機はあったかもしれませんね。しかし、実行したとして、それを立証するのは大変です」
「分ります」
と、亜由美は肯いて、「それに、恵子ちゃんのこともあるし……。郁江さんがやったかどうかは私にも——」
「よく分ってます。安易に動くことはしませんよ」
と、殿永は請け合った。
「それと——風間涼子のことと、直接関係ないとは思いますけど、ちょっと気になることがあったんです」
「ほう?」
亜由美は、郁江の夫、津田恵一が、もう帰国しているらしいことを、説明した。
「それを聞いて、奥さんの顔色が変りました。あれ、きっと、ご主人にまた女ができたんじゃないかしら」
「なるほど」
と、殿永は言った。「それを、秘書の井川という男が言ったんですね」
「ええ」
「妙ですな」
「——何が?」
と、亜由美は訊いた。
「その井川という男、津田誠一の秘書をやるぐらいだから、かなり優秀でしょう」
「ええ。いかにも、って感じ」
「おかしいですよ。津田郁江が、夫は帰ってないと思っていることを、口にしている。それなのに、井川は、帰っていると、わざわざ教えています。これじゃ、『社長は浮気してます』と、郁江に教えているようなもんだ」
亜由美にも、殿永の言わんとすることが分って来た。
「つまり——」
「いい秘書なら、それぐらいのことは察するべきですよ」
「じゃ、黙ってれば良かった、と?」
「別に、夫の方の味方をしろ、というわけじゃない。ともかく、その場でそんなことを言えば、夫婦の不仲の原因を作るようなものですよ」
「そりゃそうですね」
「井川という男、何か考えているのかもしれませんね」
「でも、風間涼子さんのことと……」
「もちろん、それとは別でしょう。ただ、気になったのでね」
——二人は飲物を空《から》にして、喫茶店を出た。
「じゃ、約束通り、送りましょう」
「いいんですか?」
「もちろん。役に立つ話も、聞けましたしね」
二人は一緒に歩き出した。
「何から手をつけるんですか?」
と、亜由美が訊くと、
「さて……。取りあえず、津田恵一には会って話を聞かないとね。それから、風間涼子の死体をどうやって壁の中へ隠したか。——取り壊す前の校舎について、図面を見たり、通っていた学生の話を聞かなくては」
「そうですね。部屋になっていたのなら、捜したでしょうし」
「当然です。それから、今、ウェディングドレスのメーカーを当っています。彼女が、本当に式で着るはずだったのは、もちろん別の物でしたから」
「でも十五年も前じゃね」
「ま、だめでもともとですよ」
と、殿永は明るく言った。「お宅のワンちゃんは元気ですか?」
「相変らず、女の子を追い回してます」
と、亜由美は言った。
そのころ、ドン・ファンはクシャミしていたかどうか……。
「ハクション!」
と、Nデパートの警備員、松山は派手なクシャミをした。「——ハクション!」
何しろ、ごく普通のクシャミでも、閉店後の夜中のデパートの中では、雷でも落ちたかと思うような大音響になる。
「ああ、畜生! 誰か噂《うわさ》してやがるな」
と、松山はこぼした。
一人でいるのに、つい口に出して、言ってしまう。
何かしゃべっていた方が、歩いていて気楽なのである。何しろ、夜中のデパートなんて、あまり気持のいいものではないのだから。
上の階から、一つずつ見回りながら、降りて来て、今、松山は四階の婦人服の売場に来ていた。
松山には最も縁のない売場だが、ただ歩いているだけなら、金がかかるわけでもないし……。
しかし、ともかくデパートの中でも、この辺の売場が一番気味が悪いのも、また確かだった。開店中に女房を連れて歩いて、
「あれ、買おうかしら」
と言われる度にドキッとする。というのとはまた違って、夜中に歩いていると、もちろん照明はほとんど消してあるし、白い布をかけたマネキンたちが、まるで誰か人が立っているかのようにも見えて、ゾッとしない光景ではあった。
いつも、この辺は松山としても、足早に通り抜けることにしていて、今夜もまた——。
バタン、と何かが倒れる音がして、松山は足を止めた。
「——何だ?」
まさか誰かが隠れてるなんてことが……。それなら、俺がいなくなってから出て来てくれりゃいいのに。
しかし、松山も真面目《まじめ》な性格である。
聞こえなかったふり[#「ふり」に傍点]をして、行ってしまうということはできないのだ。——仕方ない。
渋々、音のした方へと歩いて行った。
どうやら——ウェディングドレスのコーナーらしい。
あんな物盗む奴《やつ》もいないだろう。
大体、閉店後に見付かる人間というのは、トイレで眠っていた酔っ払いとか、浮浪者みたいなのが、ほとんどである。
大方、今の音も、その類《たぐい》の……。
スッと何かが動く気配があって、松山は飛び上りそうになった。
「誰だ!」
と、怒鳴《どな》ったものの、声は震えている。
心臓が飛び出さんばかりの勢いで打っている。
「おい。——誰かいるのか?」
と、懐中電灯の光を、向けてみると……。
ウェディングドレスを着た女が、ゆっくりと、歩いて行く。
——松山はポカンとしていた。
何だ? こんな所で何してるんだ?
ウェディングドレス……。
松山も、あの事件[#「あの事件」に傍点]のことは、知っていた。でも、もちろん、このデパートとは何の関係もないのだ。
「おい……。誰だ?」
と、松山はこわごわ、声をかけた。「おい……」
すると、その女が立ち止った。そして、ゆっくりと松山の方を向いたのである。
ヴェールの下の顔は、よく分らなかった。
「何してんだね、こんな所で……」
松山は、できるだけ平気そうな声を出そうと努力していた。それでも、やっぱり声は少々情ないくらい、小さかった。
女が、手でヴェールを持ち上げた。
そこには顔が——なかった[#「なかった」に傍点]。顔の所は、ポッカリと黒く、空洞のようで……。
「ワッ!」
と、一声、松山はその場に座り込んでしまった。
腰が抜けたのである。そして、そのままいとも安らかに気を失って、引っくり返ってしまったのだった……。