「裏切り者、おはよう」
と、神田聡子が言った。
「まだ言ってる! しつこいのね、あんたも!」
と、亜由美は顔をしかめた。「ちゃんと説明したでしょうが」
「でも、裏切ったことは間違いない」
「分ったわよ。お昼、何でも好きなもん、おごるから」
「やった! じゃ、勘弁してやる」
と、聡子はニヤニヤして、「でも、学食でしょ?」
「当り前でしょ。私たちは学生よ」
と、亜由美はもったいぶって言った。
正直なところ、学食なら、どんなに高くても千円以下ですむのである。
「——デパートに、ウェディングドレスの幽霊が出たって、TVで見た?」
「知ってるわよ」
と、亜由美は苦笑して、「ゆうべのTVは、そればっかりだったじゃない」
「本当に幽霊だったのかなあ」
——二人は、午前中の講義に出るべく、大学のキャンパスの中を歩いていた。
暖かい、穏やかな日で、亜由美は、講義も始まっていないのに(?)もう眠くなっていた……。
「分んないわよ。だけど、幽霊なら、あのデパートに出る理由がありそうなもんじゃないの」
と、亜由美は言った。
「へえ」
と、聡子は意外そうに、「亜由美、幽霊って信じてるの?」
「別に。——絶対にないとも言えない、くらいのことは考えてるわ」
と、肩をすくめて、亜由美は言った。
「そうなの? 名探偵は、すべて合理的なものの考え方をするのかと思ったわ」
「そんなことないわよ。大体、人間なんて合理的な生きものじゃないでしょ」
亜由美は珍しく(!)哲学的な意見を述べたのだった。
「——ああ、よく眠れそう」
と、講義室へ入って、聡子が大|欠伸《あくび》。
大学へ来ると欠伸が出る、というのは、やはり「条件反射」というべきものかもしれない。
人間も、この辺は「合理的」にできているのである。
「——塚川君」
と、呼ぶ声がして、早くも少しトロンとしていた亜由美は、
「何よ、気安く呼ぶなって」
と、振り向いた。
「君に電話が入っているそうだ」
と、教授が、冷ややかな目で、亜由美を見下ろしていた……。
——全くもう!
こんな時に、電話して来るなんて、どこの誰だ!
八つ当り気味にブツクサ言いつつ、亜由美は事務室へと駆けて行った。
「あ、塚川さん」
と、よく顔を知っている事務の女の子が、
「その電話」
と、指さす。
「すみません」
「珍しく警察からじゃないみたい」
「——どうも」
と、亜由美は、やや複雑な思いで、言った。
もっと、恋人からとか、不倫の相手からとか(!)、色っぽい電話はないものだろうか……。
「——お待たせしました」
と、息を弾ませて、出ると、
「あ、先生ですか」
「え?」
一瞬、かけ間違いかと思って、ムッとした。せっかく人が走って来たのに!
しかし、待てよ。この声は……。
「津田恵子の母でございます」
「あ、どうも」
怒鳴《どな》りつけなくて良かった。
「あの——実は、大変お恥ずかしいことなんですが」
と、津田郁江は言った。
「いいえ、この間はごちそうさまでした」
と、亜由美も、トンチンカンなことを言っている。
「恵子が家出したらしいんです」
「ええ?」
これには、さすがの亜由美も目が覚めてしまった。
「い、いつですか?」
「学校から連絡がありまして……。まだ来ていない、と。いつも通りに出ましたので、びっくりして、何かあったのかと」
「それで?」
「机の上に、手紙が……。あの——ゆうべ、私と主人が、少し言い合いをしたのです。それを聞いていたようで……」
「じゃ、置手紙が?」
「そうなんです。——どこへ行ったのか、心当りを捜しているんですけど。もしかしたら先生の所に」
「分りました。まあ、大丈夫と思いますよ。恵子ちゃん、しっかりしてるから。もちろん、うちへみえたら、ちゃんとお預かりしますから」
「よろしく。あの——その時はご連絡を」
「もちろんですわ」
「お勉強の最中、失礼いたしました」
「あ、いいえ、どうも……」
一瞬皮肉を言われたのかと思った。それはひがみというものだろう。
亜由美は電話を切って、戻りかけたが——。ふと、ある直感が、亜由美の中にひらめいた。
「——すみません、この電話、借りていいかしら」
「ええ、いいわよ」
「ちょっと家へかけるだけだから」
と、亜由美は言った。
学生は、事務室の電話でかけてはいけないことになっているのだ。
「——もしもし、お母さん?」
「あら、亜由美。元気?」
「今朝会ったでしょ」
「そうだっけ?」
「どうでもいいけど、ね、誰か私のことを訪ねて来なかった?」
「来たわよ」
「やっぱり! じゃ、私が帰るまで待っててって言っといて」
「もう帰ったわよ」
「ええ? どうして止めとかなかったの?」
「あなた、そんなに保険に入りたいの?」
「何よ、それ?」
「生命保険の勧誘の人でしょ」
「違うの! あのね、私の教えてる小学六年生の子が家出したの」
「まあ」
と、清美がびっくりしたように、「あなたがそそのかしたの?」
「まさか! もし、私のこと訪ねて来たら、大事にしておいてね」
「分ったわ。でも——来ないんじゃない?」
「どうして?」
「そういう時は、頼りになりそうな人の所へ行くものよ」
何考えてんだろ、あの母親は!
亜由美は、事務室を出て、歩きながら、
「やっぱり、あの亭主は浮気してたんだ」
と、呟《つぶや》いた。
それが分って、また津田郁江が怒った。
恵子が家を出るくらいだから、少々のことじゃなかったんだろう。——本当に、家庭内が荒れていると、子供ってのは、やり切れないものだ。
その点、亜由美の所は、父親の「恋人」はアニメの少女たち——ハイジとか、セーラとかだから、母親も怒ったりしないのである。
「あれ?」
——亜由美は、ハッと我に返った。
何だか知らないが、講義室に戻ったつもりが、いつの間にやら、外へ出て、校門の方へと歩いていたのだ。
これはきっと、何かの「お告げ」なんだわと亜由美は思った。家へ帰るべきだという……。
亜由美は、運命には逆らわないことにした。——もちろん、聡子から、また、「裏切り者!」と言われるかもしれないとしても…‥。
「ワン」
「あら、ドン・ファン。——お腹|空《す》いたの? ちょっと待っててね」
と、清美は、亜由美の電話に出た後、片付けをしながら言った。
「手伝いましょうか」
「いいのよ。あんたはその辺で引っくり返ってなさい」
と、清美は言ったが……。
しかし、ドン・ファンがいくら「人間的」な犬でも、人間の言葉をしゃべったのは、聞いたことがない。清美は、びっくりして(大分遅かったが)、振り向いた。
そこには、見るからに利発そうな少女が立っていた。
これがドン・ファンかしら。もしかしてダックスフントは、呪《のろ》いをかけられた仮の姿で、本当は……。
でも、足の長さが違いすぎるし。
「あの、すみません」
と、少女は頭を下げて、「津田恵子です。亜由美先生のお宅ですよね」
「亜由美先生……。ああ! あなたが、亜由美の教えている、可哀そうな[#「可哀そうな」に傍点]——いえ、可愛い生徒さんね」
と清美は言った。
「突然すみません」
「いいのよ。よく分ったわね」
「近くまで来たら、この犬が……」
と、ドン・ファンを指して、「足下にじゃれついて来て。先生から聞いてたんです、この犬のこと。それで一緒に来たんです」
「まあ。そうなの。ともかく可愛い女の子に目がないの、この犬。さ、座って。何かお菓子でも食べる?」
「お構いなく」
と、ちょっと大人びた口をきくのも、こういう子だとおかしく見えない。
「家出して来たんですって?」
「え?」
と恵子は目を丸くして、「じゃ、お母さん、もうここへも知らせたのかあ」
「いいわねえ。今の内よ、家出なんてできるのは」
「そうですか」
「そう。子供が大きくなったら、もう家出なんかできませんよ」
恵子には大分先の話だろうが……。
——亜由美が帰って来たのは、それから三十分ほどしてのことだった。
「ただいま!」
と、玄関を上って、少女の靴があるのに気付いた。
「やっぱり!」
居間へ入った亜由美は、ソファで、母親とドン・ファン、それに恵子の三人が揃《そろ》って昼寝しているのを見て、唖然《あぜん》としたのだった……。
「——でも.お宅では、心配してるわよ」
と、亜由美は、目を覚ました恵子に、言ってやった。
「ええ。もちろん、ここにいることは知らせるつもり。だけど、帰りたくないの。——いいでしょ、先生?」
と、哀願されると、亜由美も弱い。
「でも……」
「どうせ、うちは当分大変だし」
「大変って? またお父さんが謝ってるの?」
「それが——」
と、恵子が、ちょっと眉《まゆ》を寄せて、「ただ、女の人がいた、とか、そんなんじゃないみたい」
「へえ」
「聞いちゃったんだ」
「何を?」
「お母さんが言ってるのを。——『何のためにあんなことしたの!』って。ね? おかしいでしょ、訊《き》き方が」
「うん……」
「たぶん——お父さんか、お母さんか、どっちかが、あの女の人を殺したんじゃないかなあ」
と、恵子は言った。
亜由美はドキッとして、少女を見つめたのだった……。