ドアが開くと、部屋の中にいた二人は、ドキッとした様子で振り返った。
「ごめん、遅れて」
と、入って来た女性が言った。「香子はまだ?」
「うん。——かけたら?」
「そうね」
中華料理店の個室。——丸いテーブルを囲んだ四つの椅子《いす》は、あと一つだけ空《あ》いていた。
「久代、いいの、ご主人の方は?」
と、一人が、今来た女性に訊《き》く。
「うん。実家へ行くから、遅くなるって言ってあるの。——和子、もう病気は治ったの?」
「まあね」
「久代のとこはいいわね。子供がないから、気楽に出られるし」
「でも、何かと大変。仕事の方はね」
と、久代は笑って言った。「あ、私にもお茶、ちょうだい」
「うん。——どうぞ」
「ありがとう。注文は?」
「これからよ。二人じゃ決められないじゃない」
「それもそうか。でも、メニューぐらい、見ていようよ」
久代が一番元気な様子だ。和子と宏美の二人は、大分くたびれた様子で、お茶をすすっていた。
「——失礼いたします」
と、ウエイターがメニューを持って来る。
「あと一人、来るので、それからオーダーします」
と、メニューを受け取って、久代が言った。
「わかりました」
——ウエイターが退《さ》がって行くと、
「何だか暗いムードね」
と、言った。「食べて、元気出しましょうよ」
「私はここんとこ、眠れなくて」
と、和子が言った。
「また、胃に穴があくよ」
と、久代がからかった。
「そうねえ。——長生きできないんだわ、きっと」
「和子ったら。しっかりしてよ」
と、宏美が顔をしかめる。「せっかく、昔の仲間が集まったのに」
「でも——気にならないの? あのデパートの幽霊騒ぎ」
「ならないわけがないでしょ」
と、顔をしかめる。「でも、気にしたって何も事態が変るわけじゃないわ。違う?」
「久代はいいわね。昔からドライだったし」
と、また和子はため息をついた。
「余計な心配はしないことにしてるの。そうでなくたって、人生、心配事はいくらでもあるんだから」
「でも、香子、遅いわね」
と、宏美が腕時計を見た。
そう。——いつも遅刻が常習の宏美はともかく、香子はせっかちで、集まる時には、必ず一番先に来ていたのである。
「香子が来なきゃ、話になんないわね」
と、久代は言った。「それとも、何か食べてる?」
そう言って、メニューを広げた時、ドアが開いて、その香子が立っていた。
「あら、遅かったじゃない」
と、久代は言って——。「どうしたの!」
香子は真青だった。そして、ハアハアと息を切らしている。
「誰かに——追いかけられたの」
と、息をつくと、「ごめんなさい。もう、大丈夫よ」
「——座って。何かアルコールでも?」
「いいえ。もうやめてるの」
椅子にかけて、香子は首を振った。「遅れてごめんね。デパートで、あれこれ、大変だったから」
香子は、あの幽霊騒ぎのあったデパートに勤めているのだ。
「何か分ったの?」
と、久代が訊いた。「ほら、お茶」
「うん……。おいしい!」
一気に飲み干して、「——今のところ、何も分ってないの。誰かのいたずらだ、ってことになってるけど、女の子たちは怯《おび》えちゃって、だめ。辞表出したのが二十人もいたんだから」
「へえ!」
と、久代が呆《あき》れたように、「簡単に辞めるのね」
「でも、やっぱり、いい気はしないわよ」
と、香子は言った。
「——なぜ[#「なぜ」に傍点]、あのデパートに、幽霊が出たのか、誰も知らないの?」
と、和子が訊いた。
「私だって知らないわよ」
と、香子は言った。「ただ——私の出身校を、みんな知らないからね。もし、知ってたら、何か言われたかもしれない」
ウエイターが入って来て、料理を注文し、飲物も、久代の主張でビールぐらいなら、ということになって、やっと四人の顔も、少し明るくなって来た。
「——香子、追いかけられた、って、誰に?」
と、宏美が訊いた。
「気のせいだったのかもね。何しろ、ピリピリしてるから、やっぱり」
「でも……」
と、和子が、独り言のように言った。
「もし本当に、風間先生が——」
「馬鹿言わないで」
と、久代が遮《さえぎ》った。「私は負けないわよ。たとえ、相手がお化けでもね」
「そうよ」
と、香子が肯いて、「恨まれるのなら、殺した人間でしょ。私たち、別に先生を殺したわけじゃないわ」
「しっ!」
と、久代がたしなめて、「大きな声、出さないでよ。——ともかく、四人が集まったのは、あの時の秘密を、決して口にしない、という誓いを新たにするため。そうでしょう?」
「今さら誓って、何になるの?」
と、和子が言った。「もう、みんな分ってるのよ、先生には……」
和子は、顔を伏せた。——他の三人は、無言で目を見交わしたのだった。
それでも、料理が来て、食べ始めると、四人とも、しばらく会っていなかったせいもあり、「近況報告」や、クラスメイトの噂話《うわさばなし》で、大分ムードは持ち直した。
「香子はずいぶん出世したんでしょ」
と、久代が言った。
「出世ってこともないわ。女は大して重要視されないのよ」
「そうなの? でも——」
と、久代が言いかけた時、ドアが開いて、
「失礼いたします」
と、大皿のペキンダックが運ばれて来た。
「——これ、ここじゃないわ」
と、久代が言った。「注文してないわよ」
「お客様が、このお部屋へさし上げてくれ、とのことで」
「へえ。——誰かしら?」
「はい……。風間様とおっしゃる、女の方です」
と、ウエイターは言った。
「つまらない、いたずらよ」
と、久代が言った。
タクシーに乗っているのは、久代と香子の二人。帰る方向が、同じなのである。
「和子、大丈夫かな」
と、香子が言った。
「大丈夫でしょ。——でも、一番参ってるわね、あの人」
「そうね。本人も、ご主人と別れたり、色々あったものね」
と、香子はため息をついて、「やっぱり、後を尾《つ》けられてたんだわ」
「何が?」
「私が、よ。尾けて来た誰かが、あの料理を——」
「でも、誰が?」
「分らないけど」
と、香子は肩をすくめた。
二人は、しばらく黙っていた。——久代が、窓の外へ目をやりながら、
「あんな昔のこと、もう忘れてたのにね」
と、言った。
「そうね……。あの先生、でもすてきな人だった」
「思い出しても、ウットリするわね。私たちの用意したウェディングドレスを着た先生のきれいだったこと」
「そう……。まさかね、あんなことになるなんて、思わなかった……」
「ねえ」
と、久代が言った。「誰がやったんだと思う?」
「分らないわよ」
「でも——あの時、学校には、他に誰も残っていなかったわ」
「どこかに隠れてたんでしょ」
「そうかしら」
香子は、久代を見て、
「じゃ、どうだっていうの?」
「よく分らないけど……。私たち四人、学校を出て、別れたわよね。でも、もし、誰か一人が、学校へ戻ったとしたら?」
「何ですって?」
「もちろん想像だけど……。もし学校へ戻った子がいたとしたら——」
「じゃ、四人の内の誰かが、先生を……」
「そう決めてかかってるわけじゃないの。でも、可能性としてはね」
香子は、じっと久代の顔を見ていたが、
「あなた、見たのね[#「見たのね」に傍点]」
と、言った。「一人が学校へ戻るのを」
久代は、ゆっくりと肯いた。
「誰? ——宏美? 和子?」
久代は息をついて、
「今は言えないわ。何でもないことかもしれなかったんだし」
と、言った。「あ、もうすぐだわ」
タクシーが四つ角に近付くと、久代は、
「その先で」
と、運転手に言った。「じゃ、香子、またね」
「久代——」
「また会いましょ」
と、手を振って、開いたドアから、ポンと跳《と》ぶように降りた。
タクシーが走り出す。
中から香子が手を振ると、久代の方も、手を振って見せた。
そして——チラッと、ほんの一瞬のことだったが、夜の闇《やみ》の中、車のライトに照らされて、白いウェディングドレスの女が立っているのが見えたような気がした。
「まさか……」
と、香子は呟いた。「まさか……」
そして、香子は、深々と息をつき、両手で顔を覆うと、
「先生……」
と、呟いたのだった。